東田教会 Menu

2022年度
坂の途中から2023年3月26日中島善子
パソコンの横にスマホを置き、仕事をしながらWBC決勝を聞いていた。
9回表。マウンド大谷翔平。バッターボックスはトラウト。二人は同じエン
ジェルス。スマホから流れて来る中継を聞きながら、目はパソコン画面の
聖書研究原稿を見ているけど、仕事にならない。だけど大谷がトラウトを
抑え、優勝が決まった瞬間、思わず叫んだ。「おーし!」。
時間差で優勝場面が動画配信されると、それを見ながら、思わず歓喜!
歓喜!歓喜!!普段は穏やかな印象の大谷が、優勝を決めると、グローブ
とキャップを投げ捨てて、仲間と抱き合い、ジャンプしながら全身で喜び
を表していた。
昨年からウクライナへのロシア侵攻、トルコ・シリアでの大震災など、
辛いニュースがとても多かったから、今回のWBC優勝は文句なく心から喜
べたし、本当にうれしかった。
もうすぐ新年度が始まるが、新年度も辛いことが多くあるだろう。しか
しどんな辛さも、痛みも、苦しみも、悲しみも、全部ひっくり返すキリス
トの勝利があることを固く信じて、やってくる新年度を生き抜こうと思う。

「これらのことを話したのは、
あなたがたがわたしによって平和を得るためである。
あなたがたには世で苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16章33節

ラトビアの教会
ラトビアの教会にて

坂の途中から2023年3月19日中島善子
キリストが十字架の死から復活を祝う「イースター礼拝」のポスターを
作成した(ホームページでご覧ください)。
今年のポスターはイースターエッグの写真を貼り付けた。このイースター
エッグは旅先で買い求めたもの。本物の卵の殻にきれいな模様が描かれて
いる。でもどうしてイースターには卵なのか。
殻を破ってヒヨコが出て来るように、卵が命の象徴と言う説もあるし、
卵の殻がキリストの死体を納めた墓で、それを打ち破って、キリストが復
活したことを表すという説も。
イースターエッグには諸説あるが、日本ではイースターはクリスマスほ
どの知名度はない。もしもキリストが十字架で死んだままだったら、死か
ら復活しなかったら、新約聖書もなかったし、キリスト教もなかったし、
教会もなかった。
今、私達はキリストが十字架の死へと受難の道を歩まれたことを思い巡
らしているけど、何の希望もない受難の道を、空しくたどっているのでは
ない。
キリストの十字架の死の先には「復活」という命の希望があると信じて
いるから、私達は弱虫だけど、キリストの受難の道をたどって日々歩むこ
とができる。ありがたいな。

24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。
現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、
忍耐して待ち望むのです。
ローマの信徒への手紙8章24~25節

イースターエッグ
イースターエッグ

坂の途中から2023年3月12日中島善子
名古屋に行くため、豊橋に到着した電車に乗り込んだら、電車に乗った
乗客が、座席の背もたれをバタン!バタン!と倒してから座っている。
豊橋から電車の進行方向が逆になるから、座席の背もたれを反対側に倒
して、座席も進行方向に向かせるためだった。私もマネして、背もたれを
倒してみたけど、座席が重たくて力がいる。今まで何も気にせずに、その
ままの向きで座席に座っていたことに、今更だけど気がついた。
そしてまだ進行方向に向き直っていない座席は、乗務員が出発前に背も
たれの向きを直してから、電車は出発。
人は「罪と死」に向かって、ひた走る電車に乗って来た。だけどキリス
トと出会った人は、「赦しと命」へと方向転換させられる。
自力で方向転換するのではない。否、そんなこと出来ない。「罪」から
「赦し」へと、「死」から「命」へと、キリストが私達の進行方向を力強
く、方向転換してくださる。
キリストを心から信じて、キリストに従って行けば良い。「赦しと命」
に向かう道は、キリストがご存じだから。

6イエスは言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに
行くことができない。」
ヨハネによる福音書14章6節

教会
ポーランドのルター派教会にて

坂の途中から2023年3月5日中島善子
ウクライナの青年が、最初に買ったという思い入れのある愛車を、ウク
ライナ軍に提供する動画を見た。青年の愛車はトラックではなくて普通車
だったけど、ケガ人や食糧を運ぶために使われると言う。
車を軍に提供するだけかと思ったら、車の塗装を剥がし、更に迷彩模様
に車を塗り直していく。それらの手作業が彼の兄弟と一緒に行われ、迷彩
模様に塗装された車が無事、軍に引き渡されたところで、動画は終わった。
不要品を渡すのではなく、愛着のある大切なもの、しかも相手に役立つ
ものを更に役立つように、しっかり手を加えてから、相手に届ける。これ
は彼らに限ったことではなくて、多くのウクライナ人がしていることだと
いう。
教会は今、レント・受難節を過ごしている。神はご自分の御子キリスト
を世に送った。送るだけでなく「すべての人の罪が赦されるための生贄いけにえ
として、神に呪われた者のしるしである十字架の祭壇へ、御子キリストを
送った。
罪におぼれる私達を、神は見捨てないからだ。キリストと引き換えにす
るほど、私達は皆、間違いなく、神に愛されているからだ。その確かなし
るしが、キリストの十字架だ。

11彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
イザヤ書53章11節

10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたした
ちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
ヨハネの手紙一4章10節

教会
イスラエルの教会にて

坂の途中から2023年2月26日中島善子
中学生の時、フォークソングが大流行していた。ラジオの深夜放送を聞
いて覚えた大好きな歌が幾つもある。PP&Mの「虹と共に消えた恋」「悲
惨な戦争」。Joan Baezの「勝利を我らに」。Brothers Fourの「花はどこ
へ行った」などなど。これらの歌が戦争の痛みを歌っていることを実感し
たのは、ずっと後だった。
私は戦後生まれだけど、物心つく頃からベトナム戦争など世界各地で戦
争があった。そして年を重ねた今も、世界から戦争はなくなっていない。
ウクライナにロシアが侵攻して、尊い人命と平穏な生活が無残に破壊さ
れた2月24日から1年が経った。でも耐えがたい痛みと悲しみが積み重ねら
れつつも、悲惨な状況の終焉は、未だ見えて来ない。
かつてのフォークソングをCDで聞くと、歌詞の一つ一つに刺し貫かれて
泣いてしまう。 しかし「Oh, deep in my heart, I do believe, We shall
overcome, someday!」と歌っているように、世界中が神の平和の勝利に
満たされることを、心の底から信じて、命が終わる日まで祈り続けて行こう。

9わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
主は平和を宣言されます
御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
10主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
11慈しみとまことは出会い
正義と平和は口づけし
12まことは地から萌えいで
正義は天から注がれます。
13主は必ず良いものをお与えになり
わたしたちの地は実りをもたらします。
詩編85編9~13節

戦車
ポーランドにて

坂の途中から2023年2月19日中島善子
以前から「アレッポの石鹸」いう名前の石鹸を使っている。豊橋でも同
じ石鹸を見つけて、使っている。ズシリと重くて四角い無骨な感じだけど、
顔も体も洗える便利な石鹸だ。
昨年、この石鹸を買いに行くと「アレッポの石鹸」の横に「ハラブ石鹸
(アレッポ)」が置いてあり、一緒に買って来た。良く見ると小さな字で、
内戦のためトルコに避難し、困難の中で石鹸作りを再開したアレッポ石鹸
の職人からの言葉として「母国の平和を祈りながら石鹸作りを続けて参り
ます」と、書いてあった。
今月トルコ・シリアで起きた巨大地震で数多くの被災者が出た。各国か
ら救援のための人手や物資が送られているが、被害が大きくて充分ではな
い。特に内戦が続くシリアでは、現政権に反目する地域への救援が、大き
く遅延していると、報告されている。
助けを待ちながらうめく命。泣きながら救助のため働く命。愛する者を失
って落胆する命。どこの国の、誰の命であれ、本当に命は弱い。そんな弱
い命を救うために、神はご自分の御子を十字架につけた。弱い命だけど、
神が御子の命と引き換えにするほど、私達の命は神に愛されている。どこ
の国で生きようと、神に愛されているから私達の命は尊い。

38わたしは確信しています。死も、命も、天使も、
支配するものも、現在のものも、未来のものも、
力あるものも、39高い所にいるものも、低い所に
いるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの
主キリスト・イエスによって示された神の愛から、
わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙8章38~39節

十字架
トルコにて

坂の途中から2023年2月12日中島善子
最近、寒さが厳しいから、再びは🐭が牧師館の隙間から入り込んだのか。
天井に仕掛けた罠には引っかからずに、天井でまた🐭が、走り回っている。
(=゚ω゚)
更に教会のトイレの排水具合が悪くなって、只今、教会は排水管の取り
換え工事中です。
昨年のコバエとの戦いに始まり、🐭に続き、トイレの故障と、教会では
外部業者の力を借りての補修が相継いでいる。勿論、補修のための費用は
ただではない。小さな教会だから、教会にかかる負担も小さくはない。
年度末の決算など、教会資料をまとめる時期が近づくが、なんだか本当
に申し訳なくて、自分が疫病神に思えて来る。
でも、ふと思った。「今ここで、教会や牧師館の建物補修をきちんとし
ておけば、これから先、教会生活をする人たちが不安な思いをしないで済
むよな」と。
今の痛み、苦しみ、悲しみは、自分のためだけじゃない。必ず、自分以
外の誰かのための癒し、平安、喜びになるはず。それがいつなのかは分か
らないけれど、今、与えられている日々の営みを、神の御前に誠実に積み
上げて行こう。

16主はこう言われる。
泣きやむがよい。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
息子たちは敵の国から帰って来る。
17あなたの未来には希望がある、と主は言われる。
息子たちは自分の国に帰って来る。
エレミヤ書31章16~17節

十字架
ラトビアにて

坂の途中から2023年2月5日中島善子
聖書研究の準備をしていて「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべ
て、贖わねばならない。」
(出エジプト記13章13節)という言葉に、ある意
味フリーズしてしまった。
あがなう」は、聖書に良く出て来る言葉だけど、世間ではあまり使わない。
いや、ほとんど使わない。
あがなう」とは「奴隷などを、代価を支払って買い戻す」と言う意味。
そこで「十字架につけられたキリストが、ご自分の命と引き換えに、罪に
支配され、罪の奴隷だった私達を、神のもとに買い戻してくださった」

その救いを表す時に、「キリストによる贖い」という。
しかし教会で聞き慣れている言葉を、私達がいつも本気で重んじている
とは限らない。むしろ聞き慣れているだけに、「キリストによる贖い・キ
リストの犠牲」に慣れているかも知れない。だとしたらキリストの贖いに
よって、罪の中から買い戻され、救われた恵みを軽んじているということ
だ。
キリストに贖われたことを、教会用語として慣れてしまいたくない。キ
リストに贖われたことに、いつもドキドキしていたい。キリストに贖われ、
神のものとされていることに、いつも驚いて、感激して、大喜びして、感
謝して生きていきたい。「キリストの贖い」を命のない死語にしたくない。

22わたしはあなたの背きを雲のように
罪を霧のように吹き払った。
わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。
イザヤ書44章22節

7わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、
罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
エフェソの信徒への手紙1章7節

十字架
ポーランドにて

坂の途中から2023年1月29日中島善子
マルコによる福音書で、イエス様が最初に登場するのは、洗礼の場面。
洗礼は罪人が水に沈められて死に、水から引き上げられた時、神のものと
して新しく誕生したことを表す。
イエス様は神の御子で、罪を除いて人と等しくなられた。しかし罪がな
いのに、イエス様は洗礼を受けた。イエス様が水から上がると天が裂け、
霊が降り、天から声が聞こえた。
「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」。
イエス様が洗礼を受けたとは「神の御子が罪人の一人」となられたとい
うこと。イエス様の洗礼は「罪人として神から捨てられる十字架の死」
「死からの復活」に向かう道のりへの序曲でもある。
イエス様に与えられた天からの声は、罪のない神の御子が罪人の一人と
して、罪人に寄り添い、徹底的にへりくだり、罪人の救いに徹したことへ
「神からのOK、GJ」だった。
しかしイエス様が十字架につけられた時、神は一切、何も応えてくださ
らなかった。そしてイエス様は、神から完全に捨てられ、神から最も呪わ
れた罪人の一人となられた。
私達には、この「イエス様の裏地」が縫いつけられている。私達がどん
なに深く堕ちようと、どこまでも限りなく私達に寄り添い続けてくださる
「イエス様と言う救いの裏地」が、私達に縫いつけられている。だから何
が起きようとも、必ずこの方が私達を見捨てず、私達を神の懐に届けてく
ださる。

34三時にイエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てに
なったのですか」という意味である。
マルコによる福音書15章34節

十字架
ポルトガルにて

坂の途中から2023年1月22日中島善子
先月、金城学院に行く時、新幹線切符窓口が混んでいて、ずいぶん時間
がかかったから、今回は初めて、切符販売機を利用してみた。でもアレ?
アレレ??
新幹線から在来線乗り換えボタンを押すと、未知の路線がたくさん出て
来た。意味が分からず、最初に戻る。3回目のチャレンジで、乗り換え在
来線に「特急」と書いてあるのに気づいた。私が乗り換えたいのは名古屋
から鈍行。今度は、乗り換えて降りる駅名を入力しなくてはならない。
えっと、何だっけ?あせりまくっているから「大曾根」が、すぐ出てこな
い。スマホを見ながら、あわてて入力。
やっと現金の支払いにたどりついて、五千円札を入れた。しかし何度、
入れても五千円札が戻って来る。どうして??仕方なく今度は新札の1万
円を入れると、おつりの千円札が数枚と小銭がジャラジャラ。
冷や汗かきながら、ようやくゲットした切符とおつりを、ポケットにつ
っこんで新幹線切符窓口を見たら、並んでいるお客は一人もいなかった。
(;゚Д゚)
便利は必ずしも親切ではないことを、独り噛みしめながら新幹線に乗り
込んだのであります。

4わたしは思った
わたしはいたずらに骨折り
うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
働きに報いてくださるのもわたしの神である。
5主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。
イザヤ書49章4~5b節

金城学院大学
金城学院大学にて

坂の途中から2023年1月15日中島善子
コロナが気になって辞退してきたけど、今月ついに休暇をいただいた。
新幹線で東京駅。そこから山手線で上野に行くつもりで電車を乗り換えた
ら、東京の次が神田じゃなくて、上野だった。えっ、いつからそうなった
の?
調べてみたら、今、乗った電車は山手線じゃなくて「東京上野ライン」
だった。初耳だよ。気がつかなかったけれど、そんなのが新しく出来てい
たのね。上野は駅構内も改札口もすっかり改築されていて、これまた驚い
た。
西洋美術館では約3時間半、たっぷり楽しんだ。
ピカソもマチスもクレーも、ざっと100年前からの作品が並んでいるけど、
全く古さを感じさせない。すごいなぁと溜息。
翌日は友人と町田市版画美術館へ。企画展がなかったので常設展を見た
けど、知らなかった作者の作品に胸が踊った。
1泊2日の休暇で幾つもの「初めて」に出会えた。友人が言うには「初
体験をすると前頭葉を刺激するから良いのよ」。そうか、この休暇では浦
島太郎の気分も大いに味わったが、その分「初めてのドキドキ」も満載で、
前頭葉は大いに刺激されて若返ったのではないかと・・・。

11ペトロは我に返って言った。
「今、初めて本当のことが分かった。
主が天使を遣わして、
ヘロデの手から、
またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、
わたしを救い出してくださったのだ。」
使徒言行録12章11節

井の頭公園
井の頭公園にて

坂の途中から2023年1月8日中島善子
年末、友人から小包が送られて来た。中に入っていたのはタペストリー
など、手作りの作品だった。友人の体調が悪いのは知っていたから、ひと
針ひと針、手間のかかる手縫いの作業をしながら、これらを仕上げてくれ
たことを思ったら、全身が熱くなってきた。本当にありがたかった。
「うれしい」という言葉では言い表せないくらい、心底ありがたかった。
勿論、タペストリーは仕事部屋に貼った。
会いたい人がいても、コロナのこともあるから、なかなか会えない。だ
けど私達のことを思い出してくれる人がいる。それだけじゃなくて、とっ
ても大切な自分の時間と労力を、私達のために惜しむことなく、注いでく
れる人がいる。
人の思いの健やかさは健康診断の数値なんかで計れない。高価なサプリ
を飲んで、高尚な本を山ほど読んだとしても、人に、また自分に、健やか
な思いを保ち続けるのは、難しい。健やかな思いは、人から出て来るもの
じゃなくて、やっぱり「神から輝き出てくる一方的なギフト」だよね。

22地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。
わたしは神、ほかにはいない。
23わたしは自分にかけて誓う。
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない。
わたしの前に、すべての膝はかがみ
すべての舌は誓いを立て
24恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。
イザヤ書45章22~24a節

教会
イスラエルの教会にて

坂の途中から2023年1月1日中島善子
子供は年を取って大きくなるたびに、出来ることが増えて行くから、楽
しみでもある。しかし大人は年を取るたびに、出来ないことの方が増えて
来るので、正直しんどい。特に、とっさに言葉が出て来ないのが、自分で
も情けない。今まで蓄えて来たものを、あちこち落としていく感じ。それ
なのに落としていることにも気づいてない。(゜o゜)?
しかし物は考えようだ。自分が「通り道」になれば良い。人から受けた
もの、神から受けたものを、周りの人に次々と手渡して行く「通り道」に
なれば良い。
日々、神から無尽蔵にいただく愛を溜めこまずに、周りの人に渡してい
けば良い。あの人に、この人に、祈りを込めて渡していけば良い。それで
神の愛を失ったりはしない。
むしろ神の愛を渡せば渡すほど、若々しい血管みたいに、「神の愛の通
り道」として、神の愛に満たされて、神の愛につき動かされて、神の愛の
ために、私達は用いられて行く。
欲張って神の愛を溜めこむな。行き止まりの死海には魚も住めない。神
の愛を独占して、死海みたいになりたくない。

1あなたがたは神に愛されている子供ですから、
神に倣う者となりなさい。
2キリストがわたしたちを愛して、
御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして
わたしたちのために神に献げてくださったように、
あなたがたも愛によって歩みなさい。
エフェソの信徒への手紙5章1~2節

死海写本
イスラエル死海写本が発見されたクムランにて

坂の途中から2022年12月25日中島善子
ネズミ退治に、先月から業者の方が月に1度、天井に登り、対処してくだ
さっている。天井を踏み抜かないよう、気配りしながら狭い所での作業で、
恐縮してしまう。すると業者の方から、数日後、ネズミの特徴などが手書
きされたハガキが届いた。うれしくて、私も返事のお手紙を送った。
月末になって、急に冷えてきた。会堂にはガスストーブがあるけど、私
は設置の手順が分からなかった。すると会堂で集会をされた方が、ガスス
トーブの設置をしてくださった。うれしかったけど、何よりもうれしかっ
たのは、ストーブについているフィルターを外して(そんな仕組みになって
いることも、私は知らなかった)、雑巾で拭いてから、ストーブを設置して
くださったこと。
何か作業をする。仕事としては、それで完結するのだろう。でもそこに、
ほんのちょっぴり「愛」が加わると、変わる。不思議だけど、すべてが変
わる。たちまちすべてが、暖かい光を放ち始める。不思議だけど、本当の
ことだよ。

12いまだかつて神を見た者はいません。
わたしたちが互いに愛し合うならば、
神はわたしたちの内にとどまってくださり、
神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
ヨハネの手紙一4章12節

教会
ポーランドの教会にて

坂の途中から2022年12月18日中島善子
今年、急逝された恩師の追悼文を作成するということで、原稿依頼され
ていたが、締切の直前まで提出できなかった。恩師を思い出すと、どうし
ても涙があふれてしまうからだ。「なぜだろう」と自分でも分からなくて、
心を探っていた。
恩師を心から尊敬していた。信仰のことだけでなく、その生き方も尊敬
していた。そして恩師に理想の父親像を重ねていたことに、やっと気がつ
いた。「こんな父親が欲しい」と、心の中で思っていた自分に気がついた。
旧姓時代の家族は皆、他界しているけど、訃報を聞いても泣けなかった。
「家族だったけど、家族じゃなった」からだ。家族がいなくて寂しかった
ことに、今更ながら気がついた。
だから御子キリストが、私達に決して失われることのない「永遠の父」
を与えてくださることが、心底ありがたい。
私達を神の家族にしてくださるため、神を「アッバ、父よ。おとうちゃ
ん!」と、腹の底から呼ぶことを、私達に赦してくださるため、この世界
に、また一人一人の中に、神の御子キリストが誕生してくださったことが、
心底ありがたい。

14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる
霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。
この霊によってわたしたちは、
「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
ローマの信徒への手紙8章14~15節

教会
イスラエル受胎告知教会にて

坂の途中から2022年12月11日中島善子
アドベントにふさわしい準備は何か。ツリーを飾るなら、商店でもやっ
ている。教会はキリストの誕生を祝い、復活のキリストが再び世に来られ
る終わりの日を待ち望む。そして「信じる者を神の子供とする」と告げる
聖書の約束を確信しながら備える。これがアドベントにふさわしい準備。
神の救いが完成する終わりの日はまだ来ない。
それがいつかも分からないけど、終わりの日を待つ1週間毎の一里塚が日
曜の礼拝だとしたら、1年毎の一里塚?はクリスマス🎄。クリスマスを迎
える毎に、神の子供として新しく生まれる「終わりの日」に近づいていく。
ほら。クリスマスの喜びが湧いて来たでしょ。(^◇^)/♪
私達を神の子供、キリストの兄弟姉妹にするためにこそ、キリストが生
まれた。キリストが生まれたのは私達と無関係なんかじゃない。それどこ
ろか私達のためにこそキリストはこの世に生まれた。私達を神の子供とし
てくださる神からの最高のクリスマスプレゼントはキリスト。この方を独
り占めしないで、皆でいただく。大丈夫。どんなにたくさんの人と分かち
合っても、キリストは減りません。

26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ば
れて神の子なのです。

27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリ
ストを着ているからです。
28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も
自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたが
たは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙3章26~28節

教会
イスラエル受胎告知教会にて

坂の途中から2022年12月4日中島善子
天井ガサゴソの続報。業者の方に天井調査をお願いした。干支の最初の
ヤツだった。嫌だ、嫌だ、嫌だ。( ;∀;)
調査の翌週、業者の方が天井に粘着シートを置き、屋外に捕獲用セット
を仕掛けてくださった。天井に大人の親指ほどの穴があって、外光が漏れ
ている。そこが出入口かも。
空家は🐭に最適な寝床らしいが、改築などすると、🐭は引越するとか。
でもこっちに来なくて良いよ。( ノД`)
業者の方が教える一番の防衛方法は掃除。つまり清潔さ。常に人の手が
入っていると、人の匂いに警戒するそうだ。
主の誕生を待ち望む時期に、全く別物を迎えてしまった。これを教訓に、
欲や意地やエゴで、足の踏み場もないくらい心をゴチャゴチャにして、サ
タンの寝床とならないように、充分、気をつけないと。そしてクリスマス
は元より、復活のキリストがいつ来られても良いよう、礼拝と祈りによっ
て、自分の狭い心が整えられることを切に願う。
イヤ、たとえゴミ屋敷のようになろうとも、決して私達を見捨てない神。
イエス・キリストを信じて、待ち望む。

9わたしはあなたを固くとらえ
地の果て、その隅々から呼び出して言った。
あなたはわたしの僕
わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
10恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。
たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。
イザヤ書41章9~10節

教会
イスラエル受胎告知教会にて

坂の途中から2022年11月27日中島善子
最近、牧師館の押入れの上とか天井でガサゴソ音がする。今まで経験が
ないから???だったけど、我が家のお猫様が素早く反応するので、まさ
かと思い始めている。
仕事している机の上にズカズカ上って寝ていたお猫様が、肌寒くなって
きたら、私の膝の上で寝るようになった。でも天井でガサゴソ音がしたら、
寝ていたお猫様がサッと膝から机の上に飛び移り、天井を凝視している。
おいおい入力中のパソコン、どうしてくれるの。仕方なくパソコンを閉じ
て、私も天井を見つめ耳を澄ます。耳を澄ましても、何ができるわけでも
ないが。
でもお猫様を見ていて感心することがある。怪しい物とか獲物に対して、
寝ていても敏感に反応して身構えることだ。元野良猫のキャリアのせいか
も知れないが。
キリストが来られる時を待ち望む待降節(アドベント)に入った。
12月25日のクリスマス礼拝に備えると共に、復活のキリストが世に来られ
る「終わりの日」に備えることも身に刻みこんでいく。でもその日に私は、
お猫様のように素早く目覚めてキリストを迎えられるか。う~ん、自信は
ない。

36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も
知らない。ただ、父だけがご存じである。37人の子が来る
のは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、
ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、
めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来
て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子
が来る場合も、このようである。

44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思い
がけない時に来るからである。」
マタイによる福音書24章36~39節、44節

教会
リトアニアの教会にて

坂の途中から2022年11月20日中島善子
今年も残すところ、あと一か月余り。お世話になった恩師、親しい友人、
先輩、後輩牧師の訃報を聞くことが多くなった。病気であれ、何であれ、
誰かの死を受け入れることは、簡単ではない。そんな折、死刑手続きを茶
化して語った大臣が、批判の嵐を浴びて失職した。当然だろう。
誰かが死ぬことについて、自分が最終的な決断を下して、承認する。
そのことに関わる。ムリムリムリ!怖い怖い!!苦しすぎる!!そんなこ
とは絶対にできない。
誰でもそう思うはず。でも何かのスイッチが入った途端、人は豹変ひょうへんする。
そしていとも簡単に他人の命を貪欲の道具、快楽の道具にしてしまう。
「そんなことは絶対にしない」なんていう立派な自負も、いざとなると
周りに流されて、狂気に走るかも知れない。
そんな自分が怖い。否、簡単に罪に飲まれて狂ってしまう人間が、何よ
りも怖い。

14それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。
ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と
言うと、15彼らは叫んだ。
「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」
ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」
と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに
王はありません」と答えた。
16そこで、ピラトは、十字架につけるために、
イエスを彼らに引き渡した。
ヨハネによる福音書19章14~16節

十字架の道
エルサレムにて

坂の途中から2022年11月13日中島善子
ニコニコ愛想良く話をしていても、話が終わった途端に、サッと笑顔が
消える。世間じゃ良くあるけど、目の当たりにすると興ざめだし、その人
の本心を見たようで怖い。
主の祈りは、地上で神の御心に従って生きることを願い、キリストが祈
っていた祈りを、弟子達にも教えてくださったもの。そして今は私達も主
の祈りを祈っている。主の祈りは「国と力と栄とは、限りなく汝のものな
ればなり」
で終わるけど、でもこれは後に加えられた言葉だ。
じゃあ最後の言葉は余分なのか。違う。「終わり良ければ、すべて良し」
というけど、どう終わるかが大事。主の祈りの最後の言葉は神だけを讃美
して、神にだけスポットライトが当たることを願っている。同時に、主の
祈りを祈りっ放しにさせないで、祈った人が、その後どう生きるのか、具
体的な生き方をも問いかけて来る。さぁ、私はどう生きるのか。

天にまします我らの父よ、
願わくは、御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
主の祈り(1880年訳)

神殿
神殿の模型
エルサレムにて

坂の途中から2022年11月6日中島善子
宗教改革の続報。ルターから始まった宗教改革の火種は、各地に広がり、
多くの人の信仰を燃え立たせた。
その中にカルヴァンもいた。カルヴァンは数多くの闘いを通して、今日
の改革長老教会の礎(いしずえ)を築いた一人。カルヴァンの闘いの実りを、
私達の教会も受け取っている(豊橋東田教会は改革長老派の伝統に立ってい
ます)。
でも宗教改革はプロテスタント教会を生んだだけでなく、カトリック教
会も変えた。宗教改革の後、カトリック教会は意欲的に世界伝道へと出て
行った。イエズス会のザビエルもその一人。ザビエルは日本に渡って、キ
リスト教を伝えた。1549年のことだ。
宗教改革はカトリック教会を否定するのではなく、地上の教会を改革し
ながら、昔も今も、神の救いに向けて、人々の信仰を励まし続ける。だが
神の救いは、人の思いなど軽々と跳び超える。それを目の当たりにするの
終わりの日だ。
生きている者と死んだ者が、人の思いが蹴散らされる神の救いを目の当
たりにして、腰を抜かすほど大喜びしながら、全身全霊で神を讃美する
「神の救いが完成する終わりの日」を、生死を越えた信仰者が共に待ち望
んでいる。

38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためで
はなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてく
ださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること
である。
40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得る
ことであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだ
からである。」
ヨハネによる福音書6章38~40節

復活のキリスト
復活のキリスト
チャルトリスキ美術館にて


坂の途中から2022年10月30日中島善子
マルティン・ルターは聖書を研究し、聖書を解き明かして行くほど、教
会の在り方に違和感を覚えた。やがて違和感は「(高額献金などでなく)た
だ恵みによって、信仰によって、キリストによってのみ人は神の前に義と
される(救われる)」ことに目覚め、絶大な力をもつ教会に対し、95箇条の
提題を突きつけた。こうして宗教改革の狼煙(のろし)が上がった。1517年
10月31日のことだ。
当然、ルターは教会から破門され、帝国からも追放され、見つけ次第、
殺されても文句の言えない凶状持ちとなった。しかし巨大権力に攻撃され
ても、彼の前進は止まなかった。聖書をドイツ語翻訳するなど、聖職者が
独占していた礼拝の恵みを信徒に届けるため、数多くの礼拝改革を手がけ
た。
彼が作った讃美歌が「我が命、我がすべて、取らば取れ、神の国はなお、
我にあり」
(讃美歌21377番)と歌うように、ルターが命がけで祈り、闘
い、取り組んだ宗教改革の実りを、今日も多くの教会、多くのキリスト者
が受け取っている。
違和感を放置せず、真実を探求していく先に、キリストの助けにより、
新たな恵みの視界が必ず拓けると信じている。ひるまず前進して行こう!!

求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、
探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。
ルカによる福音書11章9~10節

教会
ポーランドにて
ルーテル教会

坂の途中から2022年10月23日中島善子
牧師館の小さな庭に、いくつかバラの鉢を置いて、手入れしながら育て
ている。庭に出る時に履くのは100均で買ったサンダル。先月末頃から、
サンダルを履くと、なんだか足の裏に違和感がある。だけどサンダルの底
を見ても何もない。「おかしいなぁ、でもやっぱり変」。だからサンダル
の底を手に取って、ジックリ指で触りながら観てみた。
そしたらあった!バラの細くて鋭い棘がサンダルの底に刺さっていた。
サンダルの底にスッポリ埋まっていたから、見つけにくかったんだ。でも
チクチクしていた違和感の元が分かったから、細いバラの棘を抜いて、
一件落着。
身の周りや世間の出来事に触れて「何だかおかしいなぁ」と違和感が残
ることがある。その時は分からないけど、何かの拍子に「あ、こいつが違
和感の元か」と気づかされる。
瞬発力はないけど、たとえ周回遅れでも、小さな違和感を見過ごしたり、
忘れたりしないで、違和感の元に気づかせてもらえるのは、本当にありが
たい。気づけば、そこから何度でも手直しとか、方向転換とか、軌道修正
ができるからね。

8身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔
が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回
っています。

10しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・
イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神
御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、
強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
ペトロの手紙一5章8、10節

十字架の丘
リトアニアにて
十字架の丘

坂の途中から2022年10月16日中島善子
子供が送ってくれた雑貨にミッフィー(うさこちゃん)のトイレットペー
パーが入っていた。トイレットペーパーとは言っても、可愛いミッフィー
で、お尻なんか拭けませんよ。だからそばに置いて、ティシュ代わりに使
っていた。
でもなぜか、お猫様がミッフィーのトイレットペーパーを抱えこんで、
ひっかいて、かじって、足キックをするようになった。ミッフィーを可愛
く思う私の腹をお猫様に読まれ、攻撃されたのか。新しく取り替えても、
やはりミッフィーのトイレットペーパーはズタズタにされる。( ノД`)シクシク
毎日、お世話になるトイレットペーパーを、チリ紙(塵紙)とか、落とし
紙(水洗式トイレがなかった時代)とか、言っていた。その名の通り、使っ
たら捨てられて、忘れられる物。でもなかったら絶対に困る。本当に困る。
キリストが十字架につけられて、最悪の者、呪われた者として神に捨て
られたのは、罪まみれの私達の尻ぬぐいをするためだった。私達は自分の
罪の尻ぬぐいができない。だからキリストの十字架が立っている。罪をく
り返す私達だけど、キリストの十字架が立っている。だから今、こうして
私達は生きることが赦されている。キリストがおられなかったら、絶対に
困る。本当に困る。

34三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、
サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしを
お見捨てになったのですか」という意味である。
マルコによる福音書15章34節

背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。
イザヤ書53章12c節

十字架の丘
リトアニアにて
十字架の丘

坂の途中から2022年10月9日中島善子
5㎏も太ったせいなのか、外反母趾の痛みがひどくなり、病院に行った。
前回、レントゲンを撮り、湿布をいただき、インソールを作るため、靴を
持ってくるよう言われていた。
今、仕事で外出するのは少ない。一番痛みを感じるのは、部屋を歩き回
っている時だし、教会の周辺を歩く時はゲタ。「コロナのせいで、最近、
靴を履いてないよなぁ」と改めて思った。だから靴のインソールを作るこ
とに?だった。
でも靴を持参し病院へ。担当の方(理学療法士?)が、まず裸足になった
私の歩き方を何度もチェックした。そして足裏などにテーピングをして歩
き、貼り直してまた歩くを何度も繰り返した。歩く時の足裏の蹴り具合な
ども、念入りに観ているようだ。
普段、何も考えないで歩いているから、すごく緊張する。またテーピン
グした足で、片足ずつのスクワットもやった。そしてテーピングが進むに
つれ、片足スクワットが安定してくる。あらら不思議。(^◇^)
シャワーを浴びたばかりだから、足はきれいだったけど、足を素手で触
られることなど、ほとんどないから恐縮した。それにインソールを作るの
に、丁寧に時間をかけてもらったことにも恐縮した。そのことを言ったら、
床にかがんだまま担当の方は笑っていた。靴を預けたのでインソールは
月末、できるとのこと。またあの若い女性担当者に会える。

3イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、
御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを
悟り、4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取っ
て腰にまとわれた。5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足
を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
ヨハネによる福音書13章3~5節

十字架の丘
リトアニアにて
十字架の丘

坂の途中から2022年10月2日中島善子
英国で荘厳な国葬が行われた後、日本でも国葬があった。英国はキリス
ト教国だから、人を神とはしないけど、日本はどうだろう。日本国憲法は
あるけど、人でも動物でも山でも手あたり次第、何でも神になるのが日本
だからなぁ。
牧師になって、多くの葬儀に関わって来た。教会の葬儀は礼拝だから、
葬儀で故人を神と讃えることなどありえない。
むしろ故人の生涯を通して、いかに神が愛をもって故人を支え、導いて
おられたかを証ししながら、死を超えた復活の命の希望を確かにさせてく
ださる神を、一同でほめ讃えて、感謝を献げるのが、教会の葬儀だ。
だから教会における葬儀の中心は、故人ではなくて神だ。神が招いて葬
儀が始まり、神が祝福して葬儀が終わる。塩をまかれて「ご愁傷様」では
ない。教会の葬儀に参加した者は、「神から命の祝福を受けた者」として、
神と人に仕えるため、それぞれの持ち場に向けて、雄々しく散らされて行
く。

25ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、
足もとにひれ伏して拝んだ。
26ペトロは彼を起こして言った。
「お立ちください。わたしもただの人間です。」
使徒言行録10章25~26節

10わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。
すると、天使はわたしにこう言った。
「やめよ。
わたしは、あなたやイエスの証しを守っている
あなたの兄弟たちと共に、仕える者である。
神を礼拝せよ。
ヨハネの黙示録19章10節

十字架の丘
リトアニアにて
十字架の丘

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