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2022年度
坂の途中から2023年3月26日中島善子
パソコンの横にスマホを置き、仕事をしながらWBC決勝を聞いていた。
9回表。マウンド大谷翔平。バッターボックスはトラウト。二人は同じエン
ジェルス。スマホから流れて来る中継を聞きながら、目はパソコン画面の
聖書研究原稿を見ているけど、仕事にならない。だけど大谷がトラウトを
抑え、優勝が決まった瞬間、思わず叫んだ。「おーし!」。
時間差で優勝場面が動画配信されると、それを見ながら、思わず歓喜!
歓喜!歓喜!!普段は穏やかな印象の大谷が、優勝を決めると、グローブ
とキャップを投げ捨てて、仲間と抱き合い、ジャンプしながら全身で喜び
を表していた。
昨年からウクライナへのロシア侵攻、トルコ・シリアでの大震災など、
辛いニュースがとても多かったから、今回のWBC優勝は文句なく心から喜
べたし、本当にうれしかった。
もうすぐ新年度が始まるが、新年度も辛いことが多くあるだろう。しか
しどんな辛さも、痛みも、苦しみも、悲しみも、全部ひっくり返すキリス
トの勝利があることを固く信じて、やってくる新年度を生き抜こうと思う。

「これらのことを話したのは、
あなたがたがわたしによって平和を得るためである。
あなたがたには世で苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16章33節

ラトビアの教会
ラトビアの教会にて

坂の途中から2023年3月19日中島善子
キリストが十字架の死から復活を祝う「イースター礼拝」のポスターを
作成した(ホームページでご覧ください)。
今年のポスターはイースターエッグの写真を貼り付けた。このイースター
エッグは旅先で買い求めたもの。本物の卵の殻にきれいな模様が描かれて
いる。でもどうしてイースターには卵なのか。
殻を破ってヒヨコが出て来るように、卵が命の象徴と言う説もあるし、
卵の殻がキリストの死体を納めた墓で、それを打ち破って、キリストが復
活したことを表すという説も。
イースターエッグには諸説あるが、日本ではイースターはクリスマスほ
どの知名度はない。もしもキリストが十字架で死んだままだったら、死か
ら復活しなかったら、新約聖書もなかったし、キリスト教もなかったし、
教会もなかった。
今、私達はキリストが十字架の死へと受難の道を歩まれたことを思い巡
らしているけど、何の希望もない受難の道を、空しくたどっているのでは
ない。
キリストの十字架の死の先には「復活」という命の希望があると信じて
いるから、私達は弱虫だけど、キリストの受難の道をたどって日々歩むこ
とができる。ありがたいな。

24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。
現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、
忍耐して待ち望むのです。
ローマの信徒への手紙8章24~25節

イースターエッグ
イースターエッグ

坂の途中から2023年3月12日中島善子
名古屋に行くため、豊橋に到着した電車に乗り込んだら、電車に乗った
乗客が、座席の背もたれをバタン!バタン!と倒してから座っている。
豊橋から電車の進行方向が逆になるから、座席の背もたれを反対側に倒
して、座席も進行方向に向かせるためだった。私もマネして、背もたれを
倒してみたけど、座席が重たくて力がいる。今まで何も気にせずに、その
ままの向きで座席に座っていたことに、今更だけど気がついた。
そしてまだ進行方向に向き直っていない座席は、乗務員が出発前に背も
たれの向きを直してから、電車は出発。
人は「罪と死」に向かって、ひた走る電車に乗って来た。だけどキリス
トと出会った人は、「赦しと命」へと方向転換させられる。
自力で方向転換するのではない。否、そんなこと出来ない。「罪」から
「赦し」へと、「死」から「命」へと、キリストが私達の進行方向を力強
く、方向転換してくださる。
キリストを心から信じて、キリストに従って行けば良い。「赦しと命」
に向かう道は、キリストがご存じだから。

6イエスは言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに
行くことができない。」
ヨハネによる福音書14章6節

教会
ポーランドのルター派教会にて

坂の途中から2023年3月5日中島善子
ウクライナの青年が、最初に買ったという思い入れのある愛車を、ウク
ライナ軍に提供する動画を見た。青年の愛車はトラックではなくて普通車
だったけど、ケガ人や食糧を運ぶために使われると言う。
車を軍に提供するだけかと思ったら、車の塗装を剥がし、更に迷彩模様
に車を塗り直していく。それらの手作業が彼の兄弟と一緒に行われ、迷彩
模様に塗装された車が無事、軍に引き渡されたところで、動画は終わった。
不要品を渡すのではなく、愛着のある大切なもの、しかも相手に役立つ
ものを更に役立つように、しっかり手を加えてから、相手に届ける。これ
は彼らに限ったことではなくて、多くのウクライナ人がしていることだと
いう。
教会は今、レント・受難節を過ごしている。神はご自分の御子キリスト
を世に送った。送るだけでなく「すべての人の罪が赦されるための生贄いけにえ
として、神に呪われた者のしるしである十字架の祭壇へ、御子キリストを
送った。
罪におぼれる私達を、神は見捨てないからだ。キリストと引き換えにす
るほど、私達は皆、間違いなく、神に愛されているからだ。その確かなし
るしが、キリストの十字架だ。

11彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
イザヤ書53章11節

10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたした
ちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
ヨハネの手紙一4章10節

教会
イスラエルの教会にて

坂の途中から2023年2月26日中島善子
中学生の時、フォークソングが大流行していた。ラジオの深夜放送を聞
いて覚えた大好きな歌が幾つもある。PP&Mの「虹と共に消えた恋」「悲
惨な戦争」。Joan Baezの「勝利を我らに」。Brothers Fourの「花はどこ
へ行った」などなど。これらの歌が戦争の痛みを歌っていることを実感し
たのは、ずっと後だった。
私は戦後生まれだけど、物心つく頃からベトナム戦争など世界各地で戦
争があった。そして年を重ねた今も、世界から戦争はなくなっていない。
ウクライナにロシアが侵攻して、尊い人命と平穏な生活が無残に破壊さ
れた2月24日から1年が経った。でも耐えがたい痛みと悲しみが積み重ねら
れつつも、悲惨な状況の終焉は、未だ見えて来ない。
かつてのフォークソングをCDで聞くと、歌詞の一つ一つに刺し貫かれて
泣いてしまう。 しかし「Oh, deep in my heart, I do believe, We shall
overcome, someday!」と歌っているように、世界中が神の平和の勝利に
満たされることを、心の底から信じて、命が終わる日まで祈り続けて行こう。

9わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
主は平和を宣言されます
御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
10主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
11慈しみとまことは出会い
正義と平和は口づけし
12まことは地から萌えいで
正義は天から注がれます。
13主は必ず良いものをお与えになり
わたしたちの地は実りをもたらします。
詩編85編9~13節

戦車
ポーランドにて

坂の途中から2023年2月19日中島善子
以前から「アレッポの石鹸」いう名前の石鹸を使っている。豊橋でも同
じ石鹸を見つけて、使っている。ズシリと重くて四角い無骨な感じだけど、
顔も体も洗える便利な石鹸だ。
昨年、この石鹸を買いに行くと「アレッポの石鹸」の横に「ハラブ石鹸
(アレッポ)」が置いてあり、一緒に買って来た。良く見ると小さな字で、
内戦のためトルコに避難し、困難の中で石鹸作りを再開したアレッポ石鹸
の職人からの言葉として「母国の平和を祈りながら石鹸作りを続けて参り
ます」と、書いてあった。
今月トルコ・シリアで起きた巨大地震で数多くの被災者が出た。各国か
ら救援のための人手や物資が送られているが、被害が大きくて充分ではな
い。特に内戦が続くシリアでは、現政権に反目する地域への救援が、大き
く遅延していると、報告されている。
助けを待ちながらうめく命。泣きながら救助のため働く命。愛する者を失
って落胆する命。どこの国の、誰の命であれ、本当に命は弱い。そんな弱
い命を救うために、神はご自分の御子を十字架につけた。弱い命だけど、
神が御子の命と引き換えにするほど、私達の命は神に愛されている。どこ
の国で生きようと、神に愛されているから私達の命は尊い。

38わたしは確信しています。死も、命も、天使も、
支配するものも、現在のものも、未来のものも、
力あるものも、39高い所にいるものも、低い所に
いるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの
主キリスト・イエスによって示された神の愛から、
わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙8章38~39節

十字架
トルコにて

坂の途中から2023年2月12日中島善子
最近、寒さが厳しいから、再びは🐭が牧師館の隙間から入り込んだのか。
天井に仕掛けた罠には引っかからずに、天井でまた🐭が、走り回っている。
(=゚ω゚)
更に教会のトイレの排水具合が悪くなって、只今、教会は排水管の取り
換え工事中です。
昨年のコバエとの戦いに始まり、🐭に続き、トイレの故障と、教会では
外部業者の力を借りての補修が相継いでいる。勿論、補修のための費用は
ただではない。小さな教会だから、教会にかかる負担も小さくはない。
年度末の決算など、教会資料をまとめる時期が近づくが、なんだか本当
に申し訳なくて、自分が疫病神に思えて来る。
でも、ふと思った。「今ここで、教会や牧師館の建物補修をきちんとし
ておけば、これから先、教会生活をする人たちが不安な思いをしないで済
むよな」と。
今の痛み、苦しみ、悲しみは、自分のためだけじゃない。必ず、自分以
外の誰かのための癒し、平安、喜びになるはず。それがいつなのかは分か
らないけれど、今、与えられている日々の営みを、神の御前に誠実に積み
上げて行こう。

16主はこう言われる。
泣きやむがよい。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
息子たちは敵の国から帰って来る。
17あなたの未来には希望がある、と主は言われる。
息子たちは自分の国に帰って来る。
エレミヤ書31章16~17節

十字架
ラトビアにて

坂の途中から2023年2月5日中島善子
聖書研究の準備をしていて「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべ
て、贖わねばならない。」
(出エジプト記13章13節)という言葉に、ある意
味フリーズしてしまった。
あがなう」は、聖書に良く出て来る言葉だけど、世間ではあまり使わない。
いや、ほとんど使わない。
あがなう」とは「奴隷などを、代価を支払って買い戻す」と言う意味。
そこで「十字架につけられたキリストが、ご自分の命と引き換えに、罪に
支配され、罪の奴隷だった私達を、神のもとに買い戻してくださった」

その救いを表す時に、「キリストによる贖い」という。
しかし教会で聞き慣れている言葉を、私達がいつも本気で重んじている
とは限らない。むしろ聞き慣れているだけに、「キリストによる贖い・キ
リストの犠牲」に慣れているかも知れない。だとしたらキリストの贖いに
よって、罪の中から買い戻され、救われた恵みを軽んじているということ
だ。
キリストに贖われたことを、教会用語として慣れてしまいたくない。キ
リストに贖われたことに、いつもドキドキしていたい。キリストに贖われ、
神のものとされていることに、いつも驚いて、感激して、大喜びして、感
謝して生きていきたい。「キリストの贖い」を命のない死語にしたくない。

22わたしはあなたの背きを雲のように
罪を霧のように吹き払った。
わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。
イザヤ書44章22節

7わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、
罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
エフェソの信徒への手紙1章7節

十字架
ポーランドにて

坂の途中から2023年1月29日中島善子
マルコによる福音書で、イエス様が最初に登場するのは、洗礼の場面。
洗礼は罪人が水に沈められて死に、水から引き上げられた時、神のものと
して新しく誕生したことを表す。
イエス様は神の御子で、罪を除いて人と等しくなられた。しかし罪がな
いのに、イエス様は洗礼を受けた。イエス様が水から上がると天が裂け、
霊が降り、天から声が聞こえた。
「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」。
イエス様が洗礼を受けたとは「神の御子が罪人の一人」となられたとい
うこと。イエス様の洗礼は「罪人として神から捨てられる十字架の死」
「死からの復活」に向かう道のりへの序曲でもある。
イエス様に与えられた天からの声は、罪のない神の御子が罪人の一人と
して、罪人に寄り添い、徹底的にへりくだり、罪人の救いに徹したことへ
「神からのOK、GJ」だった。
しかしイエス様が十字架につけられた時、神は一切、何も応えてくださ
らなかった。そしてイエス様は、神から完全に捨てられ、神から最も呪わ
れた罪人の一人となられた。
私達には、この「イエス様の裏地」が縫いつけられている。私達がどん
なに深く堕ちようと、どこまでも限りなく私達に寄り添い続けてくださる
「イエス様と言う救いの裏地」が、私達に縫いつけられている。だから何
が起きようとも、必ずこの方が私達を見捨てず、私達を神の懐に届けてく
ださる。

34三時にイエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てに
なったのですか」という意味である。
マルコによる福音書15章34節

十字架
ポルトガルにて

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