東田教会 Menu

2022年度
坂の途中から2023年3月26日中島善子
パソコンの横にスマホを置き、仕事をしながらWBC決勝を聞いていた。
9回表。マウンド大谷翔平。バッターボックスはトラウト。二人は同じエン
ジェルス。スマホから流れて来る中継を聞きながら、目はパソコン画面の
聖書研究原稿を見ているけど、仕事にならない。だけど大谷がトラウトを
抑え、優勝が決まった瞬間、思わず叫んだ。「おーし!」。
時間差で優勝場面が動画配信されると、それを見ながら、思わず歓喜!
歓喜!歓喜!!普段は穏やかな印象の大谷が、優勝を決めると、グローブ
とキャップを投げ捨てて、仲間と抱き合い、ジャンプしながら全身で喜び
を表していた。
昨年からウクライナへのロシア侵攻、トルコ・シリアでの大震災など、
辛いニュースがとても多かったから、今回のWBC優勝は文句なく心から喜
べたし、本当にうれしかった。
もうすぐ新年度が始まるが、新年度も辛いことが多くあるだろう。しか
しどんな辛さも、痛みも、苦しみも、悲しみも、全部ひっくり返すキリス
トの勝利があることを固く信じて、やってくる新年度を生き抜こうと思う。

「これらのことを話したのは、
あなたがたがわたしによって平和を得るためである。
あなたがたには世で苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16章33節

ラトビアの教会
ラトビアの教会にて

坂の途中から2023年3月19日中島善子
キリストが十字架の死から復活を祝う「イースター礼拝」のポスターを
作成した(ホームページでご覧ください)。
今年のポスターはイースターエッグの写真を貼り付けた。このイースター
エッグは旅先で買い求めたもの。本物の卵の殻にきれいな模様が描かれて
いる。でもどうしてイースターには卵なのか。
殻を破ってヒヨコが出て来るように、卵が命の象徴と言う説もあるし、
卵の殻がキリストの死体を納めた墓で、それを打ち破って、キリストが復
活したことを表すという説も。
イースターエッグには諸説あるが、日本ではイースターはクリスマスほ
どの知名度はない。もしもキリストが十字架で死んだままだったら、死か
ら復活しなかったら、新約聖書もなかったし、キリスト教もなかったし、
教会もなかった。
今、私達はキリストが十字架の死へと受難の道を歩まれたことを思い巡
らしているけど、何の希望もない受難の道を、空しくたどっているのでは
ない。
キリストの十字架の死の先には「復活」という命の希望があると信じて
いるから、私達は弱虫だけど、キリストの受難の道をたどって日々歩むこ
とができる。ありがたいな。

24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。
現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、
忍耐して待ち望むのです。
ローマの信徒への手紙8章24~25節

イースターエッグ
イースターエッグ

坂の途中から2023年3月12日中島善子
名古屋に行くため、豊橋に到着した電車に乗り込んだら、電車に乗った
乗客が、座席の背もたれをバタン!バタン!と倒してから座っている。
豊橋から電車の進行方向が逆になるから、座席の背もたれを反対側に倒
して、座席も進行方向に向かせるためだった。私もマネして、背もたれを
倒してみたけど、座席が重たくて力がいる。今まで何も気にせずに、その
ままの向きで座席に座っていたことに、今更だけど気がついた。
そしてまだ進行方向に向き直っていない座席は、乗務員が出発前に背も
たれの向きを直してから、電車は出発。
人は「罪と死」に向かって、ひた走る電車に乗って来た。だけどキリス
トと出会った人は、「赦しと命」へと方向転換させられる。
自力で方向転換するのではない。否、そんなこと出来ない。「罪」から
「赦し」へと、「死」から「命」へと、キリストが私達の進行方向を力強
く、方向転換してくださる。
キリストを心から信じて、キリストに従って行けば良い。「赦しと命」
に向かう道は、キリストがご存じだから。

6イエスは言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに
行くことができない。」
ヨハネによる福音書14章6節

教会
ポーランドのルター派教会にて

坂の途中から2023年3月5日中島善子
ウクライナの青年が、最初に買ったという思い入れのある愛車を、ウク
ライナ軍に提供する動画を見た。青年の愛車はトラックではなくて普通車
だったけど、ケガ人や食糧を運ぶために使われると言う。
車を軍に提供するだけかと思ったら、車の塗装を剥がし、更に迷彩模様
に車を塗り直していく。それらの手作業が彼の兄弟と一緒に行われ、迷彩
模様に塗装された車が無事、軍に引き渡されたところで、動画は終わった。
不要品を渡すのではなく、愛着のある大切なもの、しかも相手に役立つ
ものを更に役立つように、しっかり手を加えてから、相手に届ける。これ
は彼らに限ったことではなくて、多くのウクライナ人がしていることだと
いう。
教会は今、レント・受難節を過ごしている。神はご自分の御子キリスト
を世に送った。送るだけでなく「すべての人の罪が赦されるための生贄いけにえ
として、神に呪われた者のしるしである十字架の祭壇へ、御子キリストを
送った。
罪におぼれる私達を、神は見捨てないからだ。キリストと引き換えにす
るほど、私達は皆、間違いなく、神に愛されているからだ。その確かなし
るしが、キリストの十字架だ。

11彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
イザヤ書53章11節

10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたした
ちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
ヨハネの手紙一4章10節

教会
イスラエルの教会にて

坂の途中から2023年2月26日中島善子
中学生の時、フォークソングが大流行していた。ラジオの深夜放送を聞
いて覚えた大好きな歌が幾つもある。PP&Mの「虹と共に消えた恋」「悲
惨な戦争」。Joan Baezの「勝利を我らに」。Brothers Fourの「花はどこ
へ行った」などなど。これらの歌が戦争の痛みを歌っていることを実感し
たのは、ずっと後だった。
私は戦後生まれだけど、物心つく頃からベトナム戦争など世界各地で戦
争があった。そして年を重ねた今も、世界から戦争はなくなっていない。
ウクライナにロシアが侵攻して、尊い人命と平穏な生活が無残に破壊さ
れた2月24日から1年が経った。でも耐えがたい痛みと悲しみが積み重ねら
れつつも、悲惨な状況の終焉は、未だ見えて来ない。
かつてのフォークソングをCDで聞くと、歌詞の一つ一つに刺し貫かれて
泣いてしまう。 しかし「Oh, deep in my heart, I do believe, We shall
overcome, someday!」と歌っているように、世界中が神の平和の勝利に
満たされることを、心の底から信じて、命が終わる日まで祈り続けて行こう。

9わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
主は平和を宣言されます
御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
10主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
11慈しみとまことは出会い
正義と平和は口づけし
12まことは地から萌えいで
正義は天から注がれます。
13主は必ず良いものをお与えになり
わたしたちの地は実りをもたらします。
詩編85編9~13節

戦車
ポーランドにて

坂の途中から2023年2月19日中島善子
以前から「アレッポの石鹸」いう名前の石鹸を使っている。豊橋でも同
じ石鹸を見つけて、使っている。ズシリと重くて四角い無骨な感じだけど、
顔も体も洗える便利な石鹸だ。
昨年、この石鹸を買いに行くと「アレッポの石鹸」の横に「ハラブ石鹸
(アレッポ)」が置いてあり、一緒に買って来た。良く見ると小さな字で、
内戦のためトルコに避難し、困難の中で石鹸作りを再開したアレッポ石鹸
の職人からの言葉として「母国の平和を祈りながら石鹸作りを続けて参り
ます」と、書いてあった。
今月トルコ・シリアで起きた巨大地震で数多くの被災者が出た。各国か
ら救援のための人手や物資が送られているが、被害が大きくて充分ではな
い。特に内戦が続くシリアでは、現政権に反目する地域への救援が、大き
く遅延していると、報告されている。
助けを待ちながらうめく命。泣きながら救助のため働く命。愛する者を失
って落胆する命。どこの国の、誰の命であれ、本当に命は弱い。そんな弱
い命を救うために、神はご自分の御子を十字架につけた。弱い命だけど、
神が御子の命と引き換えにするほど、私達の命は神に愛されている。どこ
の国で生きようと、神に愛されているから私達の命は尊い。

38わたしは確信しています。死も、命も、天使も、
支配するものも、現在のものも、未来のものも、
力あるものも、39高い所にいるものも、低い所に
いるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの
主キリスト・イエスによって示された神の愛から、
わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙8章38~39節

十字架
トルコにて

坂の途中から2023年2月12日中島善子
最近、寒さが厳しいから、再びは🐭が牧師館の隙間から入り込んだのか。
天井に仕掛けた罠には引っかからずに、天井でまた🐭が、走り回っている。
(=゚ω゚)
更に教会のトイレの排水具合が悪くなって、只今、教会は排水管の取り
換え工事中です。
昨年のコバエとの戦いに始まり、🐭に続き、トイレの故障と、教会では
外部業者の力を借りての補修が相継いでいる。勿論、補修のための費用は
ただではない。小さな教会だから、教会にかかる負担も小さくはない。
年度末の決算など、教会資料をまとめる時期が近づくが、なんだか本当
に申し訳なくて、自分が疫病神に思えて来る。
でも、ふと思った。「今ここで、教会や牧師館の建物補修をきちんとし
ておけば、これから先、教会生活をする人たちが不安な思いをしないで済
むよな」と。
今の痛み、苦しみ、悲しみは、自分のためだけじゃない。必ず、自分以
外の誰かのための癒し、平安、喜びになるはず。それがいつなのかは分か
らないけれど、今、与えられている日々の営みを、神の御前に誠実に積み
上げて行こう。

16主はこう言われる。
泣きやむがよい。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
息子たちは敵の国から帰って来る。
17あなたの未来には希望がある、と主は言われる。
息子たちは自分の国に帰って来る。
エレミヤ書31章16~17節

十字架
ラトビアにて

坂の途中から2023年2月5日中島善子
聖書研究の準備をしていて「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべ
て、贖わねばならない。」
(出エジプト記13章13節)という言葉に、ある意
味フリーズしてしまった。
あがなう」は、聖書に良く出て来る言葉だけど、世間ではあまり使わない。
いや、ほとんど使わない。
あがなう」とは「奴隷などを、代価を支払って買い戻す」と言う意味。
そこで「十字架につけられたキリストが、ご自分の命と引き換えに、罪に
支配され、罪の奴隷だった私達を、神のもとに買い戻してくださった」

その救いを表す時に、「キリストによる贖い」という。
しかし教会で聞き慣れている言葉を、私達がいつも本気で重んじている
とは限らない。むしろ聞き慣れているだけに、「キリストによる贖い・キ
リストの犠牲」に慣れているかも知れない。だとしたらキリストの贖いに
よって、罪の中から買い戻され、救われた恵みを軽んじているということ
だ。
キリストに贖われたことを、教会用語として慣れてしまいたくない。キ
リストに贖われたことに、いつもドキドキしていたい。キリストに贖われ、
神のものとされていることに、いつも驚いて、感激して、大喜びして、感
謝して生きていきたい。「キリストの贖い」を命のない死語にしたくない。

22わたしはあなたの背きを雲のように
罪を霧のように吹き払った。
わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。
イザヤ書44章22節

7わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、
罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
エフェソの信徒への手紙1章7節

十字架
ポーランドにて

坂の途中から2023年1月29日中島善子
マルコによる福音書で、イエス様が最初に登場するのは、洗礼の場面。
洗礼は罪人が水に沈められて死に、水から引き上げられた時、神のものと
して新しく誕生したことを表す。
イエス様は神の御子で、罪を除いて人と等しくなられた。しかし罪がな
いのに、イエス様は洗礼を受けた。イエス様が水から上がると天が裂け、
霊が降り、天から声が聞こえた。
「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」。
イエス様が洗礼を受けたとは「神の御子が罪人の一人」となられたとい
うこと。イエス様の洗礼は「罪人として神から捨てられる十字架の死」
「死からの復活」に向かう道のりへの序曲でもある。
イエス様に与えられた天からの声は、罪のない神の御子が罪人の一人と
して、罪人に寄り添い、徹底的にへりくだり、罪人の救いに徹したことへ
「神からのOK、GJ」だった。
しかしイエス様が十字架につけられた時、神は一切、何も応えてくださ
らなかった。そしてイエス様は、神から完全に捨てられ、神から最も呪わ
れた罪人の一人となられた。
私達には、この「イエス様の裏地」が縫いつけられている。私達がどん
なに深く堕ちようと、どこまでも限りなく私達に寄り添い続けてくださる
「イエス様と言う救いの裏地」が、私達に縫いつけられている。だから何
が起きようとも、必ずこの方が私達を見捨てず、私達を神の懐に届けてく
ださる。

34三時にイエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てに
なったのですか」という意味である。
マルコによる福音書15章34節

十字架
ポルトガルにて

坂の途中から2023年1月22日中島善子
先月、金城学院に行く時、新幹線切符窓口が混んでいて、ずいぶん時間
がかかったから、今回は初めて、切符販売機を利用してみた。でもアレ?
アレレ??
新幹線から在来線乗り換えボタンを押すと、未知の路線がたくさん出て
来た。意味が分からず、最初に戻る。3回目のチャレンジで、乗り換え在
来線に「特急」と書いてあるのに気づいた。私が乗り換えたいのは名古屋
から鈍行。今度は、乗り換えて降りる駅名を入力しなくてはならない。
えっと、何だっけ?あせりまくっているから「大曾根」が、すぐ出てこな
い。スマホを見ながら、あわてて入力。
やっと現金の支払いにたどりついて、五千円札を入れた。しかし何度、
入れても五千円札が戻って来る。どうして??仕方なく今度は新札の1万
円を入れると、おつりの千円札が数枚と小銭がジャラジャラ。
冷や汗かきながら、ようやくゲットした切符とおつりを、ポケットにつ
っこんで新幹線切符窓口を見たら、並んでいるお客は一人もいなかった。
(;゚Д゚)
便利は必ずしも親切ではないことを、独り噛みしめながら新幹線に乗り
込んだのであります。

4わたしは思った
わたしはいたずらに骨折り
うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
働きに報いてくださるのもわたしの神である。
5主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。
イザヤ書49章4~5b節

金城学院大学
金城学院大学にて

坂の途中から2023年1月15日中島善子
コロナが気になって辞退してきたけど、今月ついに休暇をいただいた。
新幹線で東京駅。そこから山手線で上野に行くつもりで電車を乗り換えた
ら、東京の次が神田じゃなくて、上野だった。えっ、いつからそうなった
の?
調べてみたら、今、乗った電車は山手線じゃなくて「東京上野ライン」
だった。初耳だよ。気がつかなかったけれど、そんなのが新しく出来てい
たのね。上野は駅構内も改札口もすっかり改築されていて、これまた驚い
た。
西洋美術館では約3時間半、たっぷり楽しんだ。
ピカソもマチスもクレーも、ざっと100年前からの作品が並んでいるけど、
全く古さを感じさせない。すごいなぁと溜息。
翌日は友人と町田市版画美術館へ。企画展がなかったので常設展を見た
けど、知らなかった作者の作品に胸が踊った。
1泊2日の休暇で幾つもの「初めて」に出会えた。友人が言うには「初
体験をすると前頭葉を刺激するから良いのよ」。そうか、この休暇では浦
島太郎の気分も大いに味わったが、その分「初めてのドキドキ」も満載で、
前頭葉は大いに刺激されて若返ったのではないかと・・・。

11ペトロは我に返って言った。
「今、初めて本当のことが分かった。
主が天使を遣わして、
ヘロデの手から、
またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、
わたしを救い出してくださったのだ。」
使徒言行録12章11節

井の頭公園
井の頭公園にて

坂の途中から2023年1月8日中島善子
年末、友人から小包が送られて来た。中に入っていたのはタペストリー
など、手作りの作品だった。友人の体調が悪いのは知っていたから、ひと
針ひと針、手間のかかる手縫いの作業をしながら、これらを仕上げてくれ
たことを思ったら、全身が熱くなってきた。本当にありがたかった。
「うれしい」という言葉では言い表せないくらい、心底ありがたかった。
勿論、タペストリーは仕事部屋に貼った。
会いたい人がいても、コロナのこともあるから、なかなか会えない。だ
けど私達のことを思い出してくれる人がいる。それだけじゃなくて、とっ
ても大切な自分の時間と労力を、私達のために惜しむことなく、注いでく
れる人がいる。
人の思いの健やかさは健康診断の数値なんかで計れない。高価なサプリ
を飲んで、高尚な本を山ほど読んだとしても、人に、また自分に、健やか
な思いを保ち続けるのは、難しい。健やかな思いは、人から出て来るもの
じゃなくて、やっぱり「神から輝き出てくる一方的なギフト」だよね。

22地の果てのすべての人々よ
わたしを仰いで、救いを得よ。
わたしは神、ほかにはいない。
23わたしは自分にかけて誓う。
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない。
わたしの前に、すべての膝はかがみ
すべての舌は誓いを立て
24恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。
イザヤ書45章22~24a節

教会
イスラエルの教会にて

坂の途中から2023年1月1日中島善子
子供は年を取って大きくなるたびに、出来ることが増えて行くから、楽
しみでもある。しかし大人は年を取るたびに、出来ないことの方が増えて
来るので、正直しんどい。特に、とっさに言葉が出て来ないのが、自分で
も情けない。今まで蓄えて来たものを、あちこち落としていく感じ。それ
なのに落としていることにも気づいてない。(゜o゜)?
しかし物は考えようだ。自分が「通り道」になれば良い。人から受けた
もの、神から受けたものを、周りの人に次々と手渡して行く「通り道」に
なれば良い。
日々、神から無尽蔵にいただく愛を溜めこまずに、周りの人に渡してい
けば良い。あの人に、この人に、祈りを込めて渡していけば良い。それで
神の愛を失ったりはしない。
むしろ神の愛を渡せば渡すほど、若々しい血管みたいに、「神の愛の通
り道」として、神の愛に満たされて、神の愛につき動かされて、神の愛の
ために、私達は用いられて行く。
欲張って神の愛を溜めこむな。行き止まりの死海には魚も住めない。神
の愛を独占して、死海みたいになりたくない。

1あなたがたは神に愛されている子供ですから、
神に倣う者となりなさい。
2キリストがわたしたちを愛して、
御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして
わたしたちのために神に献げてくださったように、
あなたがたも愛によって歩みなさい。
エフェソの信徒への手紙5章1~2節

死海写本
イスラエル死海写本が発見されたクムランにて

坂の途中から2022年12月25日中島善子
ネズミ退治に、先月から業者の方が月に1度、天井に登り、対処してくだ
さっている。天井を踏み抜かないよう、気配りしながら狭い所での作業で、
恐縮してしまう。すると業者の方から、数日後、ネズミの特徴などが手書
きされたハガキが届いた。うれしくて、私も返事のお手紙を送った。
月末になって、急に冷えてきた。会堂にはガスストーブがあるけど、私
は設置の手順が分からなかった。すると会堂で集会をされた方が、ガスス
トーブの設置をしてくださった。うれしかったけど、何よりもうれしかっ
たのは、ストーブについているフィルターを外して(そんな仕組みになって
いることも、私は知らなかった)、雑巾で拭いてから、ストーブを設置して
くださったこと。
何か作業をする。仕事としては、それで完結するのだろう。でもそこに、
ほんのちょっぴり「愛」が加わると、変わる。不思議だけど、すべてが変
わる。たちまちすべてが、暖かい光を放ち始める。不思議だけど、本当の
ことだよ。

12いまだかつて神を見た者はいません。
わたしたちが互いに愛し合うならば、
神はわたしたちの内にとどまってくださり、
神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
ヨハネの手紙一4章12節

教会
ポーランドの教会にて

坂の途中から2022年12月18日中島善子
今年、急逝された恩師の追悼文を作成するということで、原稿依頼され
ていたが、締切の直前まで提出できなかった。恩師を思い出すと、どうし
ても涙があふれてしまうからだ。「なぜだろう」と自分でも分からなくて、
心を探っていた。
恩師を心から尊敬していた。信仰のことだけでなく、その生き方も尊敬
していた。そして恩師に理想の父親像を重ねていたことに、やっと気がつ
いた。「こんな父親が欲しい」と、心の中で思っていた自分に気がついた。
旧姓時代の家族は皆、他界しているけど、訃報を聞いても泣けなかった。
「家族だったけど、家族じゃなった」からだ。家族がいなくて寂しかった
ことに、今更ながら気がついた。
だから御子キリストが、私達に決して失われることのない「永遠の父」
を与えてくださることが、心底ありがたい。
私達を神の家族にしてくださるため、神を「アッバ、父よ。おとうちゃ
ん!」と、腹の底から呼ぶことを、私達に赦してくださるため、この世界
に、また一人一人の中に、神の御子キリストが誕生してくださったことが、
心底ありがたい。

14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる
霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。
この霊によってわたしたちは、
「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
ローマの信徒への手紙8章14~15節

教会
イスラエル受胎告知教会にて

坂の途中から2022年12月11日中島善子
アドベントにふさわしい準備は何か。ツリーを飾るなら、商店でもやっ
ている。教会はキリストの誕生を祝い、復活のキリストが再び世に来られ
る終わりの日を待ち望む。そして「信じる者を神の子供とする」と告げる
聖書の約束を確信しながら備える。これがアドベントにふさわしい準備。
神の救いが完成する終わりの日はまだ来ない。
それがいつかも分からないけど、終わりの日を待つ1週間毎の一里塚が日
曜の礼拝だとしたら、1年毎の一里塚?はクリスマス🎄。クリスマスを迎
える毎に、神の子供として新しく生まれる「終わりの日」に近づいていく。
ほら。クリスマスの喜びが湧いて来たでしょ。(^◇^)/♪
私達を神の子供、キリストの兄弟姉妹にするためにこそ、キリストが生
まれた。キリストが生まれたのは私達と無関係なんかじゃない。それどこ
ろか私達のためにこそキリストはこの世に生まれた。私達を神の子供とし
てくださる神からの最高のクリスマスプレゼントはキリスト。この方を独
り占めしないで、皆でいただく。大丈夫。どんなにたくさんの人と分かち
合っても、キリストは減りません。

26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ば
れて神の子なのです。

27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリ
ストを着ているからです。
28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も
自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたが
たは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙3章26~28節

教会
イスラエル受胎告知教会にて

坂の途中から2022年12月4日中島善子
天井ガサゴソの続報。業者の方に天井調査をお願いした。干支の最初の
ヤツだった。嫌だ、嫌だ、嫌だ。( ;∀;)
調査の翌週、業者の方が天井に粘着シートを置き、屋外に捕獲用セット
を仕掛けてくださった。天井に大人の親指ほどの穴があって、外光が漏れ
ている。そこが出入口かも。
空家は🐭に最適な寝床らしいが、改築などすると、🐭は引越するとか。
でもこっちに来なくて良いよ。( ノД`)
業者の方が教える一番の防衛方法は掃除。つまり清潔さ。常に人の手が
入っていると、人の匂いに警戒するそうだ。
主の誕生を待ち望む時期に、全く別物を迎えてしまった。これを教訓に、
欲や意地やエゴで、足の踏み場もないくらい心をゴチャゴチャにして、サ
タンの寝床とならないように、充分、気をつけないと。そしてクリスマス
は元より、復活のキリストがいつ来られても良いよう、礼拝と祈りによっ
て、自分の狭い心が整えられることを切に願う。
イヤ、たとえゴミ屋敷のようになろうとも、決して私達を見捨てない神。
イエス・キリストを信じて、待ち望む。

9わたしはあなたを固くとらえ
地の果て、その隅々から呼び出して言った。
あなたはわたしの僕
わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
10恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。
たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。
イザヤ書41章9~10節

教会
イスラエル受胎告知教会にて

坂の途中から2022年11月27日中島善子
最近、牧師館の押入れの上とか天井でガサゴソ音がする。今まで経験が
ないから???だったけど、我が家のお猫様が素早く反応するので、まさ
かと思い始めている。
仕事している机の上にズカズカ上って寝ていたお猫様が、肌寒くなって
きたら、私の膝の上で寝るようになった。でも天井でガサゴソ音がしたら、
寝ていたお猫様がサッと膝から机の上に飛び移り、天井を凝視している。
おいおい入力中のパソコン、どうしてくれるの。仕方なくパソコンを閉じ
て、私も天井を見つめ耳を澄ます。耳を澄ましても、何ができるわけでも
ないが。
でもお猫様を見ていて感心することがある。怪しい物とか獲物に対して、
寝ていても敏感に反応して身構えることだ。元野良猫のキャリアのせいか
も知れないが。
キリストが来られる時を待ち望む待降節(アドベント)に入った。
12月25日のクリスマス礼拝に備えると共に、復活のキリストが世に来られ
る「終わりの日」に備えることも身に刻みこんでいく。でもその日に私は、
お猫様のように素早く目覚めてキリストを迎えられるか。う~ん、自信は
ない。

36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も
知らない。ただ、父だけがご存じである。37人の子が来る
のは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、
ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、
めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来
て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子
が来る場合も、このようである。

44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思い
がけない時に来るからである。」
マタイによる福音書24章36~39節、44節

教会
リトアニアの教会にて

坂の途中から2022年11月20日中島善子
今年も残すところ、あと一か月余り。お世話になった恩師、親しい友人、
先輩、後輩牧師の訃報を聞くことが多くなった。病気であれ、何であれ、
誰かの死を受け入れることは、簡単ではない。そんな折、死刑手続きを茶
化して語った大臣が、批判の嵐を浴びて失職した。当然だろう。
誰かが死ぬことについて、自分が最終的な決断を下して、承認する。
そのことに関わる。ムリムリムリ!怖い怖い!!苦しすぎる!!そんなこ
とは絶対にできない。
誰でもそう思うはず。でも何かのスイッチが入った途端、人は豹変ひょうへんする。
そしていとも簡単に他人の命を貪欲の道具、快楽の道具にしてしまう。
「そんなことは絶対にしない」なんていう立派な自負も、いざとなると
周りに流されて、狂気に走るかも知れない。
そんな自分が怖い。否、簡単に罪に飲まれて狂ってしまう人間が、何よ
りも怖い。

14それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。
ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と
言うと、15彼らは叫んだ。
「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」
ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」
と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに
王はありません」と答えた。
16そこで、ピラトは、十字架につけるために、
イエスを彼らに引き渡した。
ヨハネによる福音書19章14~16節

十字架の道
エルサレムにて

坂の途中から2022年11月13日中島善子
ニコニコ愛想良く話をしていても、話が終わった途端に、サッと笑顔が
消える。世間じゃ良くあるけど、目の当たりにすると興ざめだし、その人
の本心を見たようで怖い。
主の祈りは、地上で神の御心に従って生きることを願い、キリストが祈
っていた祈りを、弟子達にも教えてくださったもの。そして今は私達も主
の祈りを祈っている。主の祈りは「国と力と栄とは、限りなく汝のものな
ればなり」
で終わるけど、でもこれは後に加えられた言葉だ。
じゃあ最後の言葉は余分なのか。違う。「終わり良ければ、すべて良し」
というけど、どう終わるかが大事。主の祈りの最後の言葉は神だけを讃美
して、神にだけスポットライトが当たることを願っている。同時に、主の
祈りを祈りっ放しにさせないで、祈った人が、その後どう生きるのか、具
体的な生き方をも問いかけて来る。さぁ、私はどう生きるのか。

天にまします我らの父よ、
願わくは、御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
主の祈り(1880年訳)

神殿
神殿の模型
エルサレムにて

坂の途中から2022年11月6日中島善子
宗教改革の続報。ルターから始まった宗教改革の火種は、各地に広がり、
多くの人の信仰を燃え立たせた。
その中にカルヴァンもいた。カルヴァンは数多くの闘いを通して、今日
の改革長老教会の礎(いしずえ)を築いた一人。カルヴァンの闘いの実りを、
私達の教会も受け取っている(豊橋東田教会は改革長老派の伝統に立ってい
ます)。
でも宗教改革はプロテスタント教会を生んだだけでなく、カトリック教
会も変えた。宗教改革の後、カトリック教会は意欲的に世界伝道へと出て
行った。イエズス会のザビエルもその一人。ザビエルは日本に渡って、キ
リスト教を伝えた。1549年のことだ。
宗教改革はカトリック教会を否定するのではなく、地上の教会を改革し
ながら、昔も今も、神の救いに向けて、人々の信仰を励まし続ける。だが
神の救いは、人の思いなど軽々と跳び超える。それを目の当たりにするの
終わりの日だ。
生きている者と死んだ者が、人の思いが蹴散らされる神の救いを目の当
たりにして、腰を抜かすほど大喜びしながら、全身全霊で神を讃美する
「神の救いが完成する終わりの日」を、生死を越えた信仰者が共に待ち望
んでいる。

38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためで
はなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてく
ださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること
である。
40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得る
ことであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだ
からである。」
ヨハネによる福音書6章38~40節

復活のキリスト
復活のキリスト
チャルトリスキ美術館にて


坂の途中から2022年10月30日中島善子
マルティン・ルターは聖書を研究し、聖書を解き明かして行くほど、教
会の在り方に違和感を覚えた。やがて違和感は「(高額献金などでなく)た
だ恵みによって、信仰によって、キリストによってのみ人は神の前に義と
される(救われる)」ことに目覚め、絶大な力をもつ教会に対し、95箇条の
提題を突きつけた。こうして宗教改革の狼煙(のろし)が上がった。1517年
10月31日のことだ。
当然、ルターは教会から破門され、帝国からも追放され、見つけ次第、
殺されても文句の言えない凶状持ちとなった。しかし巨大権力に攻撃され
ても、彼の前進は止まなかった。聖書をドイツ語翻訳するなど、聖職者が
独占していた礼拝の恵みを信徒に届けるため、数多くの礼拝改革を手がけ
た。
彼が作った讃美歌が「我が命、我がすべて、取らば取れ、神の国はなお、
我にあり」
(讃美歌21377番)と歌うように、ルターが命がけで祈り、闘
い、取り組んだ宗教改革の実りを、今日も多くの教会、多くのキリスト者
が受け取っている。
違和感を放置せず、真実を探求していく先に、キリストの助けにより、
新たな恵みの視界が必ず拓けると信じている。ひるまず前進して行こう!!

求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、
探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。
ルカによる福音書11章9~10節

教会
ポーランドにて
ルーテル教会

坂の途中から2022年10月23日中島善子
牧師館の小さな庭に、いくつかバラの鉢を置いて、手入れしながら育て
ている。庭に出る時に履くのは100均で買ったサンダル。先月末頃から、
サンダルを履くと、なんだか足の裏に違和感がある。だけどサンダルの底
を見ても何もない。「おかしいなぁ、でもやっぱり変」。だからサンダル
の底を手に取って、ジックリ指で触りながら観てみた。
そしたらあった!バラの細くて鋭い棘がサンダルの底に刺さっていた。
サンダルの底にスッポリ埋まっていたから、見つけにくかったんだ。でも
チクチクしていた違和感の元が分かったから、細いバラの棘を抜いて、
一件落着。
身の周りや世間の出来事に触れて「何だかおかしいなぁ」と違和感が残
ることがある。その時は分からないけど、何かの拍子に「あ、こいつが違
和感の元か」と気づかされる。
瞬発力はないけど、たとえ周回遅れでも、小さな違和感を見過ごしたり、
忘れたりしないで、違和感の元に気づかせてもらえるのは、本当にありが
たい。気づけば、そこから何度でも手直しとか、方向転換とか、軌道修正
ができるからね。

8身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔
が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回
っています。

10しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・
イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神
御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、
強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
ペトロの手紙一5章8、10節

十字架の丘
リトアニアにて
十字架の丘

坂の途中から2022年10月16日中島善子
子供が送ってくれた雑貨にミッフィー(うさこちゃん)のトイレットペー
パーが入っていた。トイレットペーパーとは言っても、可愛いミッフィー
で、お尻なんか拭けませんよ。だからそばに置いて、ティシュ代わりに使
っていた。
でもなぜか、お猫様がミッフィーのトイレットペーパーを抱えこんで、
ひっかいて、かじって、足キックをするようになった。ミッフィーを可愛
く思う私の腹をお猫様に読まれ、攻撃されたのか。新しく取り替えても、
やはりミッフィーのトイレットペーパーはズタズタにされる。( ノД`)シクシク
毎日、お世話になるトイレットペーパーを、チリ紙(塵紙)とか、落とし
紙(水洗式トイレがなかった時代)とか、言っていた。その名の通り、使っ
たら捨てられて、忘れられる物。でもなかったら絶対に困る。本当に困る。
キリストが十字架につけられて、最悪の者、呪われた者として神に捨て
られたのは、罪まみれの私達の尻ぬぐいをするためだった。私達は自分の
罪の尻ぬぐいができない。だからキリストの十字架が立っている。罪をく
り返す私達だけど、キリストの十字架が立っている。だから今、こうして
私達は生きることが赦されている。キリストがおられなかったら、絶対に
困る。本当に困る。

34三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、
サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしを
お見捨てになったのですか」という意味である。
マルコによる福音書15章34節

背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。
イザヤ書53章12c節

十字架の丘
リトアニアにて
十字架の丘

坂の途中から2022年10月9日中島善子
5㎏も太ったせいなのか、外反母趾の痛みがひどくなり、病院に行った。
前回、レントゲンを撮り、湿布をいただき、インソールを作るため、靴を
持ってくるよう言われていた。
今、仕事で外出するのは少ない。一番痛みを感じるのは、部屋を歩き回
っている時だし、教会の周辺を歩く時はゲタ。「コロナのせいで、最近、
靴を履いてないよなぁ」と改めて思った。だから靴のインソールを作るこ
とに?だった。
でも靴を持参し病院へ。担当の方(理学療法士?)が、まず裸足になった
私の歩き方を何度もチェックした。そして足裏などにテーピングをして歩
き、貼り直してまた歩くを何度も繰り返した。歩く時の足裏の蹴り具合な
ども、念入りに観ているようだ。
普段、何も考えないで歩いているから、すごく緊張する。またテーピン
グした足で、片足ずつのスクワットもやった。そしてテーピングが進むに
つれ、片足スクワットが安定してくる。あらら不思議。(^◇^)
シャワーを浴びたばかりだから、足はきれいだったけど、足を素手で触
られることなど、ほとんどないから恐縮した。それにインソールを作るの
に、丁寧に時間をかけてもらったことにも恐縮した。そのことを言ったら、
床にかがんだまま担当の方は笑っていた。靴を預けたのでインソールは
月末、できるとのこと。またあの若い女性担当者に会える。

3イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、
御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを
悟り、4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取っ
て腰にまとわれた。5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足
を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
ヨハネによる福音書13章3~5節

十字架の丘
リトアニアにて
十字架の丘

坂の途中から2022年10月2日中島善子
英国で荘厳な国葬が行われた後、日本でも国葬があった。英国はキリス
ト教国だから、人を神とはしないけど、日本はどうだろう。日本国憲法は
あるけど、人でも動物でも山でも手あたり次第、何でも神になるのが日本
だからなぁ。
牧師になって、多くの葬儀に関わって来た。教会の葬儀は礼拝だから、
葬儀で故人を神と讃えることなどありえない。
むしろ故人の生涯を通して、いかに神が愛をもって故人を支え、導いて
おられたかを証ししながら、死を超えた復活の命の希望を確かにさせてく
ださる神を、一同でほめ讃えて、感謝を献げるのが、教会の葬儀だ。
だから教会における葬儀の中心は、故人ではなくて神だ。神が招いて葬
儀が始まり、神が祝福して葬儀が終わる。塩をまかれて「ご愁傷様」では
ない。教会の葬儀に参加した者は、「神から命の祝福を受けた者」として、
神と人に仕えるため、それぞれの持ち場に向けて、雄々しく散らされて行
く。

25ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、
足もとにひれ伏して拝んだ。
26ペトロは彼を起こして言った。
「お立ちください。わたしもただの人間です。」
使徒言行録10章25~26節

10わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。
すると、天使はわたしにこう言った。
「やめよ。
わたしは、あなたやイエスの証しを守っている
あなたの兄弟たちと共に、仕える者である。
神を礼拝せよ。
ヨハネの黙示録19章10節

十字架の丘
リトアニアにて
十字架の丘

坂の途中から2022年9月25日中島善子
数値的に過去最大級の台風が日曜を挟む三連休を中心に、日本列島を縦
断して行った。
台風は毎年、経験しているけど、今回は過去最大級という点が気になっ
て、警戒して台風に備えた。まず三日間、外に出なくて済むように食糧の
確保。次に強風で飛ばされそうなものを片づける。予想される最大瞬間風
速が70mって!!なんじゃ、これ。(゚Д゚;)!
ネットで台風情報を見ていたら、強風にあおられた看板や家の屋根が
軽々と吹き飛ばされているではないか。「今回の台風は、かなりヤバイぞ」
と覚悟を決めて、いつもは適当にやっているけど、今回は物干し竿や植木
鉢など全部、安全な場所に移して片づけた。雨戸も閉めた。台風のために、
ここまでやったのは、人生で初めてかも知れない。
台風一過。幸いなことに被害もなく、片づけていたものは全部、元の場
所に戻すことができた。普段の生活に戻れた。
でも、これって、当り前じゃないよね。
今日、無事に生きているって、当り前じゃないよね。
今日、愛する人たちも一緒に生きているって、当り前じゃないよね。
これって、ものすごい一方的なギフトだよね。

8わたしの救いと栄えは神にかかっている。
力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
9民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。
神はわたしたちの避けどころ。
詩編62編8~9節

教会
ポーランドにて
岩塩抗にある礼拝堂

坂の途中から2022年9月18日中島善子
祈れない時がある。あまりにも苦しくて、疲れ果てていて、怒りすぎて
いて、混乱しすぎていて、祈れない時がある。
ただ両手を合わせて、うめくことしかできない時がある。そんな時でも
祈れるように、主の祈りがある。
祈りは神との対話だけど、祈る前から神は私達のすべてを知り尽くして
おられる。だから見栄を張る必要はない。
そして主の祈りは、神の御子イエス様が、御心にかなって地上を歩み通
すために祈っておられた祈りだ。困難の中でも父なる神が聞いてくださる
ことを確信して献げた祈りだ。
その主の祈りを、イエス様が弟子達に教えてくださった。弟子達を、ま
た私達を、神の子供とするためだ。
だから主の祈りは、神の子供たちの祈りだ。
私達が神の子供となることを、父なる神が、イエス様が、願っていてく
ださる。私達はそのことを、ただただ信じて、祈れば良い。たどたどしく
ても、子供たちが祈る主の祈りを、父なる神は、喜んで聞き取ってくださ
る。

2そこで、イエスは言われた。
「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
ルカによる福音書11章2~4節

十字架
ポーランドにて

坂の途中から2022年9月11日中島善子
去年、長年使っていたガラケーをスマホに変えた。今日、久しぶりにガ
ラケー充電して操作してみたけど、既に操作の仕方を忘れている。あちこ
ち触っていたら、留守電に入っていた友人の声。
「電車、動いているの?」。
たった一言の伝言。消すことができなくて、残していた。心配そうな友
人の声だ。
台風が近づく中、お見舞いに行って、帰りの電車が不通になり、動いて
いたバスを乗り継ぎ、帰宅した夜を思い出した。ちょうど今頃の時期だ。
ホスピスに入ることを友人は希望していた。「そうすれば近くなるから、
毎日、お見舞いに行けるよ」と私は言った。でもホスピスに入る予定だっ
た日に、友人の命は尽きた。
ガラケーには友人とのメールがたくさん残っているけど、友人の声は留
守電に残るこれだけだった。
友人の声は今も私に届くけど、私の声は友人に届かない。
いや、祈りは届く。死を超えて、祈りは必ず届く。
祈りの中で、イエス様の中で、神の愛の中で、死を超えた交わりが与え
られていることを信じている。

6主をたたえよ。
嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。
7主はわたしの力、わたしの盾
わたしの心は主に依り頼みます。
主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。
歌をささげて感謝いたします。
詩編28編6~7節

教会
ポーランドの教会にて

坂の途中から2022年9月4日中島善子
教会の礼拝に日本人だけでなく、外国籍の方も来られる。どこの国から
誰が来ても構わないけど、日本語の礼拝だから日本語が不得手な方には、
本当にごめんなさい。
説教で何を言っているのか、分からないよね。<(_ _)>💦
礼拝で、神が語りかけてくださる言葉を聞く。当たり前のことだけど、
赤ちゃんや小さい子供は礼拝に来ても、説教を理解しているわけではない。
では説教が理解できなかったら礼拝は無意味なのか。イヤイヤ、とんでも
ない!
説教が分からなくても礼拝に参加して欲しい。まだママのお腹の中にい
る赤ちゃんでも、今日初めての方でも、誰でも礼拝に参加して欲しい。
それはなぜか。
礼拝は学校みたいに、「お勉強する場」じゃないからだ。
礼拝は、イエス様を食べる「食事の場」なのだ。
礼拝は、神の愛と命と力がギッシリつまったイエス様を、みんなで食べ
合う「食事の場」だ。しかもこの食事には箸も、フォークも、ナイフも、
スプーンも要らない。耳で、皮膚で、全身全霊で、イエス様を食べるから
だ。
礼拝で説教が語られる時、イエス様が「最上のご馳走ちそう」となって差し出
され、それをみんなで食べる。愛されることに飢え渇き、生きることに疲
れ果てた一人一人を、イエス様が包み満たしていく。そして「食べたもの
が私達の体を造る」。だから説教が語られる礼拝で、みんなでイエス様を
食べて、みんなイエス様に似た者へと造られていく。超ラッキー!

20見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
ヨハネの黙示録3章20節

教会
ポーランドの教会にて

坂の途中から2022年8月28日中島善子
教会の駐車場などの雑草を引き抜いていた。暑いし、雨がよく降るか
ら、抜いても抜いても、ワサワサと雑草が生えてくる。「雑草のくせに、
生意気なんだよ」と腹の中でブツブツ言いながら抜いていたら、あっ。
(゚д゚)!
雑草で手を切った。ペラペラの葉っぱのくせに、カミソリみたいに鋭く
スパッと、私の手を切った。と同時に「バカにするな!」という、雑草の
声を聞いた気がした。
雑草なんて、誰も見てやしない。誰も足を止めたりしない。引っこ抜か
れて、ゴミとして、まとめて袋に詰め込まれて、明日の朝、捨てられるだ
け。
しかし誰も心に留めないけど、今、ここで生きている。
何の役にも立たないけど、ここに生まれて、意地をもって雑草の命を生
きている。だから命の反撃をした。「俺たちは生きているぞ」とカミソリ
の鋭さで、命の反撃をした。
歴史の中で、無数の人の命が、雑草より無残に、簡単に、引っこ抜かれ
てきた。そして「バカにするな!」と声にならない叫びをあげてきた。そ
の叫びを人は忘れてしまうけど、神は忘れない。無数の人の命の叫びを、
一つ一つの叫びを、いかなる叫びをも、神は決して忘れないし、見逃さな
い。

6五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。
だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
7それどころか、あなたがたの髪の毛までも
一本残らず数えられている。
恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりも
はるかにまさっている。
ルカによる福音書12章6~7節

貨車
アウシュビッツ・ビルケナウ第二収容所にて
行き止まりの貨車に多くの人が乗せられた

坂の途中から2022年8月21日中島善子
壮絶な苦労をして、大陸から日本に引き揚げて来られた方の葬儀と納骨
をしたことがある。その方の納骨の際、日本に引き上げて来る途中で亡く
なられたお子さんの遺髪と爪も一緒に墓に納めた。
小さい子供を失う。骨を拾うこともできず、自分の命より大切な子供を
失う。我が身を引きちぎられるような深い痛みと嘆きは、想像を絶する。
しかし当時は、そんな母親がたくさんいたはず。
その方はいつも赤ちゃんのような笑顔を絶やさなかった。礼拝が終わっ
て施設に帰っても、「今日は楽しかったね」とニコニコしながら何度も言っ
ていた。あの笑顔を見るだけで私は幸せになった。私だけでなく、周りに
いる人たちも幸せになった。
何のりきみもない、素直で、無垢な笑顔。その方の笑顔しか私は覚えてい
ない。
でもあの笑顔が生まれるまで、どれほど涙の祈りの日々が積み重ねられ
て来たことだろう。

5涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い
喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
詩編126編5~6節

アウシュビッツ
アウシュビッツにて
各国から多くの人が訪れている

坂の途中から2022年8月14日中島善子
「弱いから攻められる」という政治家がいた。弱いことは悪いことなの
か。弱いことは罪なのか。
人をねたんで、憎んで、排除する強さがある。人を侮り、攻撃する強さ
がある。人をだまして、あざ笑う強さがある。人を迷わせて、混乱させて、
つまずかせる強さがある。
愛さない強さ、赦さない強さ、サタンが喜ぶ強さがある。憎むべき罪の
強さがある。
キリストは神の御子なのに、十字架につけられて死んだ。いくらでも逃
げられたのに、キリストは十字架から降りず、すべての人の罪の赦しの代
価となって、死んだ。その姿は、みじめで、弱い。
しかし十字架につけられて死んだキリストこそ、神の愛。神の愛は自分
を救えない。否、神の愛は私達を救うことしか知らない。神の愛は自分を
忘れて、自分を見ない。神の愛は神を見て、私達を、隣人を見る。
神の愛キリストに、最後まで従って生きて行きたい。

6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに
固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分に
なり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架
の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、
天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名に
ひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と
公に宣べて、父である神をたたえるのです。
フィリピの信徒への手紙2章6~11節

アウシュビッツ
アウシュビッツにて
大勢がこの壁の前で銃殺された

坂の途中から2022年8月7日中島善子
政治に食い込むカルト集団の話題が賑やかだが、政治だけでなく、昔か
ら学校関係など各方面に、カルト集団は幅広く触手を伸ばしていた。
学生時代、部活で一緒に汗を流していた友人が、ある日、突然、姿を消
した。後日、カルトに嵌っていたと分かって、「頭の良い人がどうして?」
と思った。そして今また思う。「どうして日本人は、こんなにカルトに弱
いのか」と。
真の神を知らないからだ。
私達は幼い頃から八百万の神々を受け入れてきた。一見、それは寛容で
あり、良いことのように思える。でも真の神を知らない実害の方が、ずっ
と大きい。
真の神を知らないとは、「何でも神になる」ということだ。人であれ、
物であれ、「何でも神として拝んでしまう」ということだ。挙句の果てに、
ご利益を並べたり、恐怖心をあおるカルトの嘘を見抜けないまま、餌食に
なってしまう。
「何を神と拝もうと、人の勝手だろ」というかも知れない。しかし真の
神を知ろうとしないまま「何でも神として拝む」痛いツケは、社会全体に
回ってきて、結局、私達一人一人が支払うことになる。手遅れになる前に
真の神を知って、真の神と向き合え。そして真の神とは、

2たとえ、預言する賜物を持ち、
あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ、無に等しい。
コリントの信徒への手紙一13章2節

コルベ神父
アウシュビッツにてコルベ神父の展示資料

坂の途中から2022年7月31日中島善子
ネットなど、匿名で簡単に語れるせいか、人を傷つける言葉が氾濫して
いる。しかし良い意味でも悪い意味でも、言葉には霊的な力がある。だか
ら悪意ある言葉を語れば、相手を傷つけるだけでなく、言葉を語った人も
傷つける。「言葉の履歴」が、その人の中に残るからだ。
日本語を聞いてきた赤ちゃんが、日本語を話すように、人は聞いてきた
言葉で話す。聞いてきた言葉でしか、人は話せない。自分の中に無い言葉
では話せないからだ。
それだけではない。自分が聞いてきた言葉や話してきた言葉が、その人
を造る。人格、人間関係、その人の人生、そして社会も形造る。恐ろしい
けど、これが真実。だからどんな言葉を聞いて、どんな言葉を語るかが本
当に重要になる。若い時、このことに気づきたかった。
そして最上で最善の言葉とは、聖書が告げる神の言葉。キリストの言葉。
愛の言葉だ

今年度、金城学院で礼拝奉仕をさせていただいている。
礼拝に集う学生の姿を見ると、「私も学生時代、真剣に神の言葉に聞いて
おけば良かった…」と後悔する。だから私と同じ後悔をして欲しくないか
ら、たった6分の説教だけど、毎回、遺言のように学生に語りかけている。
「これだけは聞いて、受け取って、あなた自身の言葉にしてね!!あな
たは神に、キリストに愛されているの!!だから愛されているあなたの人
生を、隣りの人の人生を、大切にしながら生きてね!!」と祈り願いなが
ら。

16aキリストの言葉が
あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。
コロサイの信徒への手紙3章16a節

十字架
ポーランドの教会で

坂の途中から2022年7月24日中島善子
教会の要となる3つの文章(三要文)の1つに、十戒がある。十戒には、
神様が求めておられる人の姿が示されているが、十戒を守れる人は誰もい
ない。牧師だって赤点しか取れない落ちこぼれだ。それなのに、どうして
教会は十戒を重んじて来たのだろうか。
イエス様は神の御子だが、この世に来られ、十字架の死に至るまで、神
の戒めを完璧にクリアされた唯一人のお方だ。このイエス様が私達を抱き
しめてくださる。同時にイエス様の100点満点に、落ちこぼれの私達はスッ
ポリと包まれる。すると神様はこれを良しとされ、私達に「合格のハンコ」
を押して、私達を「罪のない神の子供」としてくださる。
そこに私達の手柄は1つもない。そして私達にイエス様の100点満点を着
せてくださったのは神様だ。それほど私達は、神様に愛されている。イエ
ス様がこの世に遣わされたのも、神様が私達を、罪と死の中に放置できな
いから。私達と共に生きることを、誰よりも神様ご自身が熱望しておられ
る。
それほどまでに私達は、神様に愛されている。十戒という高い塀を乗り
越えたら、神様に愛されるというのではない。私達が神様を知る前から、
私達は神様に愛され、100満点のイエス様が、私達に差し出されている。
私達には十戒を守る力はないが、100点満点のイエス様が、私達と共におら
れて「平面ガエル」みたいに私達を引っ張る。日々、イエス様に引っ張ら
れて神様の御心へ進む私達は「幸いな神の子供」。この幸いを味わい知る
ために、教会には十戒がある。

10わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。
ヨハネの手紙一4章10節

十字架
ファティマポルトガル

坂の途中から2022年7月17日中島善子
突然パソコンが壊れて新しいパソコンを購入し、苦闘悶絶しながら新し
いパソコンと格闘した先週の話の続編。
今週も悶絶しながら、新しいパソコンに向き合っている。パソコンが何
か問いかけてくるけれど、意味が分からない。まるで知らない外国に突然、
放り出された気分。(゚Д゚;)
なるべく相手(パソコン様)の機嫌を損なわないようにと、手探りの日々。
でも大切なデータがすっかり消えてしまったのが、何よりつらい。そんな
に悔やむほど大切なデータなら、別の媒体でちゃんと保管しておけば良
かったと深く反省。
でも大切なデータを失ってしまって気づいたことがある。命が終わる時、
私のすべての記憶、感情、体験も消えて無くなるんだな・・・と。でもその前
に痴ほう症で家族の顔も忘れるかもしれない。いや、それよりイエス様を
忘れてしまったら、どうしよう。「この人、牧師だったのよ。ビックリよ
ね」とか言われたくない。
先のことをあれこれ心配するのは止めよう。全部忘れてもいいや。自分
の中がカラッポになってもいいや。なぜなら、私がすべてを失っても、
私のすべてをイエス様が知っていてくださる。私を丸ごと全部イエス様が
握りしめてくださっている。そして私は永遠に、イエス様の中にいる。
そのことに気づいたから、今回のことは良しとする!(^◇^)/♪

5b主はすぐ近くにおられます。
6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい。
7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとを
キリスト・イエスによって守るでしょう。
フィリピの信徒への手紙4章5b~7節

教会
鞭打ちの教会エルサレム

坂の途中から2022年7月10日中島善子
聖書研究の準備をしていたら、突然、パソコンが壊れた。以前から調子
が悪いなぁと思っていたけど、ここで壊れるかというタイミングで壊れた。
もう少しで終わるタイミングで壊れた。泣きたい。いや、泣いた。(/_;)
ネットに繋ぐパソコンと繋がないパソコンがあり、ネットに繋がない古
いパソコンを使っていた。データを送る時に、まとめてUBSメモリーにデー
タ保存していたが、バージョンアップしてから古いパソコンが使えなくなっ
たので、データ保存をすっかり忘れていた。そして今日、パソコンの故障。
豊橋に来てからのデータがほとんど消えた。(;゚Д゚)
長老さんに連絡して、新しいパソコンを購入して、セットアップを助け
ていただいた。隣で見ていただけで、私は何もできない。しかも色々なパ
スワードとか、壊れたパソコンの中にあったから、全然わからなくて、す
ごく迷惑をかけた。
それでも何とか今、こうして週報のコラムが書けるように整えていただ
いた。
思い上がって漫然と生きていると、飛んでもなく痛い目に遭う。今回の
ことは、天から私への厳しい警告と受け止めた。

30怠け者の畑の傍らを
意志の弱い者のぶどう畑の傍らを、通ってみた。
31見よ、いらくさが一面に茂り
あざみが覆い尽くし、石垣は崩れていた。
32わたしはそれに心を向け、観察した。
それを見て、諭しを得た。
33「しばらく眠り、しばらくまどろみ
手をこまぬいて、またしばらく横になる。
34貧乏は盗賊のように
欠乏は盾を取る者のように襲う。」
箴言24章30~34節

教会
ガリラヤ湖畔の教会

坂の途中から2022年7月3日中島善子
信仰生活を通して多くの人と出会う。若い人、年配の人。強い人、弱い
人。無口な人、話し上手な人。機転が利く人もいれば、要領の悪い人もい
る。
そして不思議だけど、見た目じゃ人の信仰は分からない。と言うか、予
想をひっくり返されることが度々ある。
貧しくても、弱くても、寝たきりになって動けなくても、神様の世界を
自由に飛び回ったり、大胆に泳ぎ回ったりする信仰者の姿を、何度も何度
も見てきた。
「ねぇ、どうして、そんなに伸びやかなの?」
自分の弱さ、貧しさ、不自由さを知っているから、そんな自分が神様の
ものとされていること
を、とても大切にして、心から喜んでいる信仰者た
ちだ。
信仰の世界は、この世とは逆。この世では強い者が勝つ。しかし信仰
の世界では、弱い者、小さい者、貧しい者こそが、神様によって最強の
者、幸いな者とされて生きている。

9すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、
そして行き詰まりの状態にあっても、
キリストのために満足しています。
なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
コリントの信徒への手紙二12章9~10節

パウロ像
パウロ像マルタ島

坂の途中から2022年6月26日中島善子
沖縄は梅雨明けと聞いたが、こちらはまだ雨模様が続く。それでも雨上
がりには、教会の植木を剪定する。これまでも時々、剪定していたけど、
雨と暑さで、枝も葉もあっという間にワサワサと伸びて、茂ってしまう。
かわいそうと思うけど、剪定すると風通しが良くなって、害虫も防げ
る。何よりも、一つ一つの植木の輪郭がハッキリして元気に見えるし、
「こんな花が咲くの?」と新しい発見もあったりするのが、すこぶる楽
しい。
作業していると、教会の駐車場の利用者さんに遭遇して、「お疲れさま
でした」と挨拶できる。普段は挨拶する機会もないから、これも嬉しい。
そして挨拶を交わす度に、そこに風がわたる。
ギリシャ語で「風」を「プニューマ」という。これには「息」とか「霊」
という意味がある。キリストの弟子達に、聖霊が降ったことを記念する
「ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝」を6月5日に献げた。
神の聖なる息(霊)・聖霊が、風のように吹いて、私達から邪悪な思いを
吹き飛ばして、代わりに、神の愛を1人1人に豊かに宿らせてくださる。
いつでも聖霊によって、互いに風通し良くされていたい。風通しの良い
所には、まぶしい日差しが隅々にまで届くから。

16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、
力をもってあなたがたの内なる人を強めて、
17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、
あなたがたを愛に根ざし、
愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
エフェソの信徒への手紙3章16~17節

教会
天井画マルタ島の教会

坂の途中から2022年6月19日中島善子
「コバエとの闘い」の最終報告。洗面所の水道蛇口を交換したら、コバ
エの発生は画期的に減った。柄の長いコロコロモップを持ったまま、洗面
所に長居しなくて済むようになったのが、正直うれしい(壁や天井にいるコ
バエを、コロコロモップで貼り付けて退治していた。皆様もお試しあれ)。
そして先週、一回り大きなコバエを仕留めて、ベルゼブル(ハエの王・マ
ルコ福音書3章22節を参照あれ)と名付けた。水道蛇口の交換に加え、ハエ
の王を退治したから、あんなにうるさかったコバエの勢いが、急に落ちた
のかも知れない。わっはっは!(≧▽≦)
そこで、また勝手に思った。これって「絵空事じゃなくて確信をもって
神の国を待望しろ」という天からの励ましかも知れない。
邪悪な力が、まことしやかに装いながら、大手を振って、世の中を跋扈
(ばっこ)している。無数の尊い命が虐げられ、踏みにじられている。その
醜さ、卑劣さを知れば知るほど、意気消沈する。腸(はらわた)が冷えて、
力が失せていく。
しかし神の国は来る!!必ず来る。すべての悪が根こそぎ神の勝利に飲
み込まれる「神の国」が必ず来る!
復活のキリストが再び地上に立たれる「神の国」の到来を、全身全霊で
待ち望みながら、生きる、生きる、生きる。

14bイエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
マルコによる福音書1章14b~15節

十字架の道
エルサレム十字架の道にある教会で

坂の途中から2022年6月12日中島善子
「コバエとの闘い」の続報。洗面所の水道の蛇口が古くて根元がユルユ
ルだったし、洗面所の下方に水が漏っていた。そこで長老会が手配した水
道工事の方が来て、新しい蛇口をつけてくださった。洗面台のホーローそ
のものが古いため、完璧とは行かないけど、新しい蛇口は洗面台にシッカ
リ固定された。すると絶滅とは行かないが、コバエが少なくなった気がす
る。隠れた所で産んだコバエの卵が、まだまだ孵化して、これからも出没
するだろうから、油断はできない。でもコバエが少なくなって、うれし
かったし有難かった。
コバエを絶滅できない状況を、先週、手に余る自分の罪の姿に重ねた。
だからキリストが与えてくださる罪の赦しは、「かけがけえのない命綱だ」
と再確認できた。そして新しい蛇口が設置され、コバエ発生が抑えられた
ことで、思った。これって「聖化」につながるのかな。
生きている限り罪人だけど、キリストと共に生きることで少しずつ少し
ずつ罪から離れて行く。「聖化」されて行く。コバエの発生が抑えられた
のは、私の手柄じゃない。罪から離れて行けるのも、私の手柄じゃない。
キリストが共にいてくださるからだ。キリストに包まれて、キリストのも
のへと少しずつ「聖化」されて行く。年を重ねると不便も多いけど、キリ
ストと固く結ばれながら、キリストに似た者へと「聖化」されることを思
うと、年を重ねるのも楽しみだわ。

18わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、
鏡のように主の栄光を映し出しながら、
栄光から栄光へと、
主と同じ姿に造りかえられていきます。
これは主の霊の働きによることです。
コリントの信徒への手紙二3章18節

十字架の道
エルサレム 十字架の道

坂の途中から2022年6月5日中島善子
戸を開けて洗面所に入ると、コバエが気になる。ちゃんと拭き掃除はし
ているのに、どこから入って来るのだろうか。ネットで調べると、水回り
に出没して、卵を産んで拡散するらしい。拡散は困る。網戸の目をすり抜
けるから、暑くても洗面所の窓は締めている。水回りにスプレー洗剤を置
いて、洗面所に入るたび、コバエを狙って、スプレー発射。すると壁や天
井に、小さい黒い点が残る(勿論、後始末します)。
一通り、コバエが見当たらなくなってから洗面所を出る。でも、また洗
面所に入ると、いる。コバエの奴が。クソッ!掃除しても、スプレー洗剤
を水回りに吹きつけておいても、奴らの数は減らない。なぜだ!?
コバエと格闘しながら思った。「これ、罪との格闘みたい」。しかしコ
バエは寒くなれば消えるけど、罪はどこに行っても生涯、ついてまわる。
どんなスプレー洗剤を吹きつけても、罪は次から次へと、私の中からわき
出てくる。私の罪なんだけど、私の力じゃ、罪を始末できない。
そんな私に、唯一の希望がある。キリストの罪の赦しだ。キリストの罪
の赦しを信じて、委ねて良いんだ。
キリストの罪の赦しがあって、本当に良かった。

48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」
と考え始めた。
50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。
安心して行きなさい」と言われた。
ルカによる福音書7章48~50節

教会

坂の途中から2022年5月29日中島善子
創世記2章1~2節によると、神様は6日間で天地万物を造られた後、7日目
に安息され、この日を祝福し聖別された。大昔に書かれた聖書なのに、1週
間を7日としているのは、スゴイ。働きずめではなく、7日目に仕事を休ん
で、神様と向き合う「安息日」と定めているのも、スゴイ。
「月、月、火、水、木、金、金」という休みがない過酷な生活を表す言
葉がある。交通機関や病院、消防、警察など、1日でも休んだら、たちま
ち困る仕事がたくさんある。でも365日、働きっぱなしだと、人が人でなく
なってしまう。
だから神様、お願いします。すべての人に安息日を与えてください。そ
して安息日に、私達の思いも、意欲も、行いも、神様の中で、すべてリセ
ットしてください。日々の暮らしの中で、私達が向き合っているすべての
ものを、神様の御心の中で、完全にリセットしてください。そして安息日
にこそ、私達をまっすぐ神様に向き合わせてください。
安息日にこそ、私達が神様のものとして癒され、養われ、満たされます
ように。
そして新しくされた心と体で、安息日から始まる新しい日々を、神様の
前で生きる1人1人とならせてください。

9そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。
安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、
悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
10そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばし
なさい」と言われた。言われたようにすると、手は元ど
おりになった。
ルカによる福音書6章9~10節

教会
ポルトガル ファティマの教会

坂の途中から2022年5月22日中島善子
ウクライナに広がる冷たい残骸。知床に沈む冷たい残骸。命が無残に失
われる現実は、なんという冷たさだろう。ただ単に、命のぬくもりが失わ
れる冷たさではない。それ以上の冷たさだ。貪欲に歪む人の心から放出さ
れる冷たさだ。この冷たさに触れると、心も体も冷え切って、固まってし
まう。思考停止になって、息ができなくなってしまう。
そんな時、四国の牧師から届いたLINEをふと思い出した。野良猫をつい
つい保護して、牧師館が猫カフェになっているあの牧師夫婦だ。寝る時は
布団の上にわらわらと、何匹もの猫たちが集まり、乗って来て、猫たちの
重みを感じながら、寝ている牧師夫婦だ。
「保護していた猫が死んだ」とLINEが来た。もともと体が弱かった猫ら
しい。
そして猫が死んだ日は、一晩中、夫人が死んだ猫を抱いたままだったと
いう。朝になっても、猫は腕に抱かれていた。呆然と、猫を抱いて立って
いる夫人の写真が送られてきた。一睡もしていないとみられる顔は、泣き
すぎて腫れていた。
でもその写真からは、死の冷たさではなくて、小さな命をいとおしむ熱
が確かに伝わって来た。

37「わたしの名のためにこのような子供の一人を
受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。
わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、
わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
マルコによる福音書9章37節

教会
ベツレヘムの教会

坂の途中から2022年5月15日中島善子
以前、バイクに乗っていたが、数年前、4回目の事故の後、バイク禁止
令が出て、愛するモンキーRは友人牧師に移譲。それからバイクに乗って
ない。でも身分証明書代わりにと、隣市で免許更新(なぜか豊橋市内で手
続きできない!)。
免許センター行きのバスに乗るため、豊橋駅まで行った。驚いた。
1時間に2本しかバスがないよ。強い日差しの中、ひたすらバスを待つ。
1時間近くガラガラのバスに揺られ、免許センターへ。免許更新する人が
少ないのかと思ったが、会場は満員(皆様、車で来場)。手続きと講習で
サクッと更新終了。でも帰り道、暑い中、ひたすらバスを待ち、同じ道を
同じ時間かけて帰宅。疲れた。身分証明書ならパスポートがあった。
バイクもないのに、時間とお金と体力を浪費して、安易に免許の更新なん
かして、私はアホだった。
西尾教会で牧師会があった。迷子になりそうだったから、近隣牧師と
豊橋駅で待ち合わせて一緒に行くことに。早目に着いたので、100均ショッ
プをブラブラ。豊富な品ぞろえで、あれもこれも欲しくなった。で、気が
ついたら小物だけじゃなくて、園芸用スコップまで買っていた。
牧師会のために、発題担当の資料や、教会総会資料などを教会分だけ持参
している(オマケに傘まで持っていましたよ)。それなのに、西尾教会に
行く前から、こんなに荷物を増やしてどうすんのよ。あ~、私はやっぱり
アホだった。

14主よ、あなたがいやしてくださるなら
わたしはいやされます。
あなたが救ってくださるなら
わたしは救われます。
あなたをこそ、わたしはたたえます。
エレミヤ書17章14節

ガリラヤ湖
ガリラヤ湖

坂の途中から2022年5月8日中島善子
昔は試験当日の朝、文法の活用変化の一覧表を丸暗記して、そのまま試
験に臨めたのに、最近は記憶の劣化が激しい。とっさに人名や地名が出て
こないだけじゃなくて、数分前にひらめいた素敵なアイディアとか、さっ
きやっていたことをケロッと忘れてしまう。かなりヤバイよね。そのうち
「私、朝ごはん食べたっけ?」とか言い出すかも。
牧師に定年はないけれど、チンプンカンプンなことを言い出したら、ど
なたでも遠慮なく肩を叩いてください。
去年の引越しの際に、本など多くのものを処分した。でも記憶は荷物に
ならないし、できることなら残しておきたい。特に大切な記憶は。
子供の頃から色々なものを集めてきたけど、今は一つ一つ手離して行く
日々。そして「自分の中に最後まで残っているものって何だろう」と考え
てみた。
何も持たず、何も分からず、何もできず、カラッポの私をシッカリ抱き
しめるキリストがおられる。
私はキリストの中にいる。もうそれだけで充分です。

26「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。
そうすれば、わたしのいるところに、
わたしに仕える者もいることになる。
わたしに仕える者がいれば、
父はその人を大切にしてくださる。」
ヨハネによる福音書12章26節

イエス像

坂の途中から2022年5月1日中島善子
5月から礼拝順序を全国連合長老会の式文に倣って、変更した。一番大
きな変更のポイントは、招詞(招きの言葉)から礼拝が始まることだ。教会
はギリシャ語で「エクレーシア」「共に呼び集められた人々の群れ」と言
う意味。
誰が呼び集めるのか。主なる神様だ。聖なる神様が私達を罪あるままに
呼び集めてくださっているから、ここに教会がある。私達が好き勝手に集
まって、それでここに教会があるわけじゃない。
神様は私達の表も裏も無意識の底まで、すべてを見抜いておられる。
私達の弱さ、愚かさ、罪深さを、すべて知り尽くしておられる。それにも
かかわらず、私達一人一人の名前を神様が呼んでくださり、ご自分のもと
に集めてくださる。
私達を罰するためじゃない。私達のすべてを赦し、愛するため。神様の
ものとして養い、新しく生かして行くためだ。
礼拝の最初に招詞(招きの言葉)がある。ダメだ、最悪だと思う時でも私
達は呼ばれ、求められ、集められている。神様のものとして、共に教会に、
共に礼拝に、集められている。ここにいる私達だけじゃない。すべての人
が神様に知られていて、神様に呼ばれている。まだ見ぬ人たちも呼ばれて
いる。教会になるよう、神様に呼ばれているって、スゴイじゃん。
そのスゴイことが、招詞で始まる礼拝の最初に告げられている。それを
私達は教会で共に聞く。

12b御自身の国と栄光にあずからせようと、
神はあなたがたを招いておられます。
テサロニケの信徒への手紙一2章12b節

東田教会

坂の途中から2022年4月24日中島善子
大手牛丼屋の常務取締役が、若い女性を牛丼中毒にすると大学で講演し
て、世間で叩かれている。無神経な言葉を使う人がトップに立てる企業の
無神経さを思うと同時に、企業のトップであろうと、不当な言葉や不快な
言葉に異議が言える時代になったんだなぁとも思う。
牛丼中毒があるのかどうか知らないけど、人は様々な中毒や依存症に犯
されている。確認中毒、潔癖中毒、お菓子中毒、仕事中毒、買い物依存症、
薬物やアルコール依存症、ウソや盗み依存症、ネット依存症・・・。
治療のために病院などのお世話になる人も少なくない。
でも病院に行かなくても、すべての人が患っているのが、エゴ中毒、
エゴ依存症だ。エゴに引きずり回されて、今まで何と多くの人を傷つけ
て、何と深く自分を傷つけたことか。
自分から出たエゴだけど、エゴを鎮める力を人は持たない。エゴに溺れる
自分を、自力じゃ救えない。
でも主なる神は、私達の弱さ、惨めさを決して笑わない。傷つき病んだ
私達を、決して見捨てない。

11まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは
自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
12牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、
その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。
わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての
場所から救い出す。

16aわたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ
戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。
エゼキエル書34章11~12、16a節

スズラン

坂の途中から2022年4月17日中島善子
書店で見かけて「欲しいな」と思っていた本をいただいた。
『ぼくモグラキツネ馬』という、不思議なタイトル。味のある筆書
き文字と、ラフなペン描きイラストが、文章のリズムにピッタリ合って、
どのページも胸に浸み込む。

『いままでに あなたが いったなかで
いちばん ゆうかんなことばは?』ぼくがたずねると

馬は こたえた。 『たすけて』

『いちばん 強かったのは いつ?』

『弱さをみせることができたとき』
『たすけを求めることは、あきらめるのとはちがう』
馬は いった
『あきらめないために そうするんだ』
(『ぼく モグラ キツネ 馬』より抜粋)

無数の危うさの中に、私達は生まれ落ちて、生きている。今、生き延び
ている。すごいことだ。しかし命あるものを、死が待ち構えている。例外
はない。それでも「助けて!」と私達は叫び求めることができる。「助け
て!」と泣きながら叫んで、呼び求めて構わないキリストを、私達は知っ
ている。陰府の底から立ち上がったキリストが、私達を抱きかかえ、死の
底から引き上げてくださることを、私達は信じている。

9b求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。
ルカによる福音書11章9b~10節

卯の花

坂の途中から2022年4月10日中島善子
残りの時間。1人で動けて好きに過ごせる時間。美術館に行って、コン
サートに行って、絵を描いて、本を読んで過ごせる時間。とても大切な最
後の時間。
その一時一時を神様優先にして過ごせるか。最後の時間を心から神様に
お献げしながら過ごせるか。それが私に課せられている最後の信仰の課題。
最後の時間を自分が独占するのか。それとも喜んで神様にお献げするの
か。今も、これからも、神様に問われて行く。
最後の仕上げを誰に委ねるのか。何に委ねるのか。
残り時間で、すべてが決まる。
だからこそ神様が、いつも見守っていてくださる。
そしてイエス様が、いつも祈っていてくださる。
最後の仕上げを、自分のエゴで破壊してしまわないよう、どうかどうか、
助けてください。

40bイエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈り
なさい」と言われた。
41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、
ひざまずいてこう祈られた。
42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけて
ください。しかし、わたしの願いではなく、御心の
ままに行ってください。」
ルカによる福音書22章40b~42節

ゲッセマネ

坂の途中から2022年4月3日中島善子
1年前、初めての地に来て、長老さんに助けられながら、何とか教会に、
礼拝に仕えることができた。
今、牧師としての第4コーナーを突っ走っている。それは自分の説教を
極めるためなんかじゃない。説教を1つの手段にして、教会全体でキリスト
を体験するためだ。教会全体がキリストの体に飲み込まれるためだ。
頭だけでじゃなくて、自分のすべてが、教会のすべてが、丸ごとキリスト
に飲み尽くされる幸いを、一人一人が実体験するためだ。
礼拝の中で、一人一人が「インマヌエル・神が我らと共にいる」ことを
体験していく。「エンクリストゥ・キリストに結ばれる」ことを、皆で体験
していく。
キリストに乗っ取られ、埋め尽くされ、占領される幸いを教会全体で味わ
うようにと、今ここに一人一人が集められている。この幸いをもっと多くの
人に告げ知らせるようにと、今ここで一人一人が用いられている。
神様、ちっぽけな私達一人一人を見つけてくださって、本当にありがとう
ございます。

4あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
5そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。
詩編8編4~5節

教会

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