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坂の途中から2022年10月2日 中島 善子
 英国で荘厳な国葬が行われた後、日本でも国葬があった。英国はキリス
ト教国だから、人を神とはしないけど、日本はどうだろう。日本国憲法は
あるけど、人でも動物でも山でも手あたり次第、何でも神になるのが日本
だからなぁ。
 牧師になって、多くの葬儀に関わって来た。教会の葬儀は礼拝だから、
葬儀で故人を神と讃えることなどありえない。
 むしろ故人の生涯を通して、いかに神が愛をもって故人を支え、導いて
おられたかを証ししながら、死を超えた復活の命の希望を確かにさせてく
ださる神を、一同でほめ讃えて、感謝を献げるのが、教会の葬儀だ。
 だから教会における葬儀の中心は、故人ではなくて神だ。神が招いて葬
儀が始まり、神が祝福して葬儀が終わる。塩をまかれて「ご愁傷様」では
ない。教会の葬儀に参加した者は、「神から命の祝福を受けた者」として、
神と人に仕えるため、それぞれの持ち場に向けて、雄々しく散らされて行
く。

25ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、
足もとにひれ伏して拝んだ。
26ペトロは彼を起こして言った。
「お立ちください。わたしもただの人間です。」
使徒言行録 10章25~26節

10わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。
すると、天使はわたしにこう言った。
「やめよ。
わたしは、あなたやイエスの証しを守っている
あなたの兄弟たちと共に、仕える者である。
神を礼拝せよ。
ヨハネの黙示録19章10節

十字架の丘
リトアニアにて
十字架の丘

坂の途中から2022年9月25日 中島 善子
 数値的に過去最大級の台風が日曜を挟む三連休を中心に、日本列島を縦
断して行った。
 台風は毎年、経験しているけど、今回は過去最大級という点が気になっ
て、警戒して台風に備えた。まず三日間、外に出なくて済むように食糧の
確保。次に強風で飛ばされそうなものを片づける。予想される最大瞬間風
速が70mって!!なんじゃ、これ。(゚Д゚;)!
 ネットで台風情報を見ていたら、強風にあおられた看板や家の屋根が
軽々と吹き飛ばされているではないか。「今回の台風は、かなりヤバイぞ」
と覚悟を決めて、いつもは適当にやっているけど、今回は物干し竿や植木
鉢など全部、安全な場所に移して片づけた。雨戸も閉めた。台風のために、
ここまでやったのは、人生で初めてかも知れない。
 台風一過。幸いなことに被害もなく、片づけていたものは全部、元の場
所に戻すことができた。普段の生活に戻れた。
 でも、これって、当り前じゃないよね。
 今日、無事に生きているって、当り前じゃないよね。
 今日、愛する人たちも一緒に生きているって、当り前じゃないよね。
これって、ものすごい一方的なギフトだよね。

8わたしの救いと栄えは神にかかっている。
力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
9民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。
神はわたしたちの避けどころ。
詩編 62編 8~9節

教会
ポーランドにて
岩塩抗にある礼拝堂

坂の途中から2022年9月18日 中島 善子
 祈れない時がある。あまりにも苦しくて、疲れ果てていて、怒りすぎて
いて、混乱しすぎていて、祈れない時がある。
 ただ両手を合わせて、うめくことしかできない時がある。そんな時でも
祈れるように、主の祈りがある。
 祈りは神との対話だけど、祈る前から神は私達のすべてを知り尽くして
おられる。だから見栄を張る必要はない。
 そして主の祈りは、神の御子イエス様が、御心にかなって地上を歩み通
すために祈っておられた祈りだ。困難の中でも父なる神が聞いてくださる
ことを確信して献げた祈りだ。
 その主の祈りを、イエス様が弟子達に教えてくださった。弟子達を、ま
た私達を、神の子供とするためだ。
 だから主の祈りは、神の子供たちの祈りだ。
 私達が神の子供となることを、父なる神が、イエス様が、願っていてく
ださる。私達はそのことを、ただただ信じて、祈れば良い。たどたどしく
ても、子供たちが祈る主の祈りを、父なる神は、喜んで聞き取ってくださ
る。

2そこで、イエスは言われた。
「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
ルカによる福音書 11章 2~4節

十字架
ポーランドにて

坂の途中から2022年9月11日 中島 善子
 去年、長年使っていたガラケーをスマホに変えた。今日、久しぶりにガ
ラケー充電して操作してみたけど、既に操作の仕方を忘れている。あちこ
ち触っていたら、留守電に入っていた友人の声。
 「電車、動いているの?」。
 たった一言の伝言。消すことができなくて、残していた。心配そうな友
人の声だ。
 台風が近づく中、お見舞いに行って、帰りの電車が不通になり、動いて
いたバスを乗り継ぎ、帰宅した夜を思い出した。ちょうど今頃の時期だ。
 ホスピスに入ることを友人は希望していた。「そうすれば近くなるから、
毎日、お見舞いに行けるよ」と私は言った。でもホスピスに入る予定だっ
た日に、友人の命は尽きた。
 ガラケーには友人とのメールがたくさん残っているけど、友人の声は留
守電に残るこれだけだった。
 友人の声は今も私に届くけど、私の声は友人に届かない。
 いや、祈りは届く。死を超えて、祈りは必ず届く。
 祈りの中で、イエス様の中で、神の愛の中で、死を超えた交わりが与え
られていることを信じている。

6主をたたえよ。
嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。
7主はわたしの力、わたしの盾
わたしの心は主に依り頼みます。
主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。
歌をささげて感謝いたします。
詩編 28編 6~7節

教会
ポーランドの教会にて

坂の途中から2022年9月4日 中島 善子
 教会の礼拝に日本人だけでなく、外国籍の方も来られる。どこの国から
誰が来ても構わないけど、日本語の礼拝だから日本語が不得手な方には、
本当にごめんなさい。
説教で何を言っているのか、分からないよね。<(_ _)>💦
 礼拝で、神が語りかけてくださる言葉を聞く。当たり前のことだけど、
赤ちゃんや小さい子供は礼拝に来ても、説教を理解しているわけではない。
では説教が理解できなかったら礼拝は無意味なのか。イヤイヤ、とんでも
ない!
 説教が分からなくても礼拝に参加して欲しい。まだママのお腹の中にい
る赤ちゃんでも、今日初めての方でも、誰でも礼拝に参加して欲しい。
それはなぜか。
 礼拝は学校みたいに、「お勉強する場」じゃないからだ。
 礼拝は、イエス様を食べる「食事の場」なのだ。
 礼拝は、神の愛と命と力がギッシリつまったイエス様を、みんなで食べ
合う「食事の場」だ。しかもこの食事には箸も、フォークも、ナイフも、
スプーンも要らない。耳で、皮膚で、全身全霊で、イエス様を食べるから
だ。
 礼拝で説教が語られる時、イエス様が「最上のご馳走ちそう」となって差し出
され、それをみんなで食べる。愛されることに飢え渇き、生きることに疲
れ果てた一人一人を、イエス様が包み満たしていく。そして「食べたもの
が私達の体を造る」。だから説教が語られる礼拝で、みんなでイエス様を
食べて、みんなイエス様に似た者へと造られていく。超ラッキー!

20見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
ヨハネの黙示録 3章 20節

教会
ポーランドの教会にて

坂の途中から2022年8月28日 中島 善子
 教会の駐車場などの雑草を引き抜いていた。暑いし、雨がよく降るか
ら、抜いても抜いても、ワサワサと雑草が生えてくる。「雑草のくせに、
生意気なんだよ」と腹の中でブツブツ言いながら抜いていたら、あっ。
(゚д゚)!
 雑草で手を切った。ペラペラの葉っぱのくせに、カミソリみたいに鋭く
スパッと、私の手を切った。と同時に「バカにするな!」という、雑草の
声を聞いた気がした。
 雑草なんて、誰も見てやしない。誰も足を止めたりしない。引っこ抜か
れて、ゴミとして、まとめて袋に詰め込まれて、明日の朝、捨てられるだ
け。
 しかし誰も心に留めないけど、今、ここで生きている。
 何の役にも立たないけど、ここに生まれて、意地をもって雑草の命を生
きている。だから命の反撃をした。「俺たちは生きているぞ」とカミソリ
の鋭さで、命の反撃をした。
 歴史の中で、無数の人の命が、雑草より無残に、簡単に、引っこ抜かれ
てきた。そして「バカにするな!」と声にならない叫びをあげてきた。そ
の叫びを人は忘れてしまうけど、神は忘れない。無数の人の命の叫びを、
一つ一つの叫びを、いかなる叫びをも、神は決して忘れないし、見逃さな
い。

6五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。
だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
7それどころか、あなたがたの髪の毛までも
一本残らず数えられている。
恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりも
はるかにまさっている。
ルカによる福音書 12章 6~7節

貨車
アウシュヴィッツ・ビルケナウ第二収容所にて
行き止まりの貨車に多くの人が乗せられた

坂の途中から2022年8月21日 中島 善子
 壮絶な苦労をして、大陸から日本に引き揚げて来られた方の葬儀と納骨
をしたことがある。その方の納骨の際、日本に引き上げて来る途中で亡く
なられたお子さんの遺髪と爪も一緒に墓に納めた。
 小さい子供を失う。骨を拾うこともできず、自分の命より大切な子供を
失う。我が身を引きちぎられるような深い痛みと嘆きは、想像を絶する。
しかし当時は、そんな母親がたくさんいたはず。
 その方はいつも赤ちゃんのような笑顔を絶やさなかった。礼拝が終わっ
て施設に帰っても、「今日は楽しかったね」とニコニコしながら何度も言っ
ていた。あの笑顔を見るだけで私は幸せになった。私だけでなく、周りに
いる人たちも幸せになった。
 何のりきみもない、素直で、無垢な笑顔。その方の笑顔しか私は覚えてい
ない。
 でもあの笑顔が生まれるまで、どれほど涙の祈りの日々が積み重ねられ
て来たことだろう。

5涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い
喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
詩編 126編 5~6節

アウシュビッツ
アウシュビッツにて
各国から多くの人が訪れている

坂の途中から2022年8月14日 中島 善子
 「弱いから攻められる」という政治家がいた。弱いことは悪いことなの
か。弱いことは罪なのか。
 人をねたんで、憎んで、排除する強さがある。人を侮り、攻撃する強さ
がある。人をだまして、あざ笑う強さがある。人を迷わせて、混乱させて、
つまずかせる強さがある。
 愛さない強さ、赦さない強さ、サタンが喜ぶ強さがある。憎むべき罪の
強さがある。
 キリストは神の御子なのに、十字架につけられて死んだ。いくらでも逃
げられたのに、キリストは十字架から降りず、すべての人の罪の赦しの代
価となって、死んだ。その姿は、みじめで、弱い。
 しかし十字架につけられて死んだキリストこそ、神の愛。神の愛は自分
を救えない。否、神の愛は私達を救うことしか知らない。神の愛は自分を
忘れて、自分を見ない。神の愛は神を見て、私達を、隣人を見る。
 神の愛キリストに、最後まで従って生きて行きたい。

6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに
固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分に
なり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架
の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、
天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名に
ひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と
公に宣べて、父である神をたたえるのです。
フィリピの信徒への手紙 2章6~11節

アウシュビッツ
アウシュビッツにて
大勢がこの壁の前で銃殺された

坂の途中から2022年8月7日 中島 善子
 政治に食い込むカルト集団の話題が賑やかだが、政治だけでなく、昔か
ら学校関係など各方面に、カルト集団は幅広く触手を伸ばしていた。
 学生時代、部活で一緒に汗を流していた友人が、ある日、突然、姿を消
した。後日、カルトに嵌っていたと分かって、「頭の良い人がどうして?」
と思った。そして今また思う。「どうして日本人は、こんなにカルトに弱
いのか」と。
 真の神を知らないからだ。
 私達は幼い頃から八百万の神々を受け入れてきた。一見、それは寛容で
あり、良いことのように思える。でも真の神を知らない実害の方が、ずっ
と大きい。
 真の神を知らないとは、「何でも神になる」ということだ。人であれ、
物であれ、「何でも神として拝んでしまう」ということだ。挙句の果てに、
ご利益を並べたり、恐怖心をあおるカルトの嘘を見抜けないまま、餌食に
なってしまう。
 「何を神と拝もうと、人の勝手だろ」というかも知れない。しかし真の
神を知ろうとしないまま「何でも神として拝む」痛いツケは、社会全体に
回ってきて、結局、私達一人一人が支払うことになる。手遅れになる前に
真の神を知って、真の神と向き合え。そして真の神とは、

2たとえ、預言する賜物を持ち、
あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ、無に等しい。
コリントの信徒への手紙一 13章2節

コルベ神父
アウシュビッツにて コルベ神父の展示資料

坂の途中から2022年7月31日 中島 善子
 ネットなど、匿名で簡単に語れるせいか、人を傷つける言葉が氾濫して
いる。しかし良い意味でも悪い意味でも、言葉には霊的な力がある。だか
ら悪意ある言葉を語れば、相手を傷つけるだけでなく、言葉を語った人も
傷つける。「言葉の履歴」が、その人の中に残るからだ。
 日本語を聞いてきた赤ちゃんが、日本語を話すように、人は聞いてきた
言葉で話す。聞いてきた言葉でしか、人は話せない。自分の中に無い言葉
では話せないからだ。
 それだけではない。自分が聞いてきた言葉や話してきた言葉が、その人
を造る。人格、人間関係、その人の人生、そして社会も形造る。恐ろしい
けど、これが真実。だからどんな言葉を聞いて、どんな言葉を語るかが本
当に重要になる。若い時、このことに気づきたかった。
 そして最上で最善の言葉とは、聖書が告げる神の言葉。キリストの言葉。
愛の言葉だ

 今年度、金城学院で礼拝奉仕をさせていただいている。
礼拝に集う学生の姿を見ると、「私も学生時代、真剣に神の言葉に聞いて
おけば良かった…」と後悔する。だから私と同じ後悔をして欲しくないか
ら、たった6分の説教だけど、毎回、遺言のように学生に語りかけている。
 「これだけは聞いて、受け取って、あなた自身の言葉にしてね!!あな
たは神に、キリストに愛されているの!!だから愛されているあなたの人
生を、隣りの人の人生を、大切にしながら生きてね!!」と祈り願いなが
ら。

16aキリストの言葉が
あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。
コロサイの信徒への手紙 3章16a節

十字架
ポーランドの教会で

坂の途中から2022年7月24日 中島 善子
 教会の要となる3つの文章(三要文)の1つに、十戒がある。十戒には、
神様が求めておられる人の姿が示されているが、十戒を守れる人は誰もい
ない。牧師だって赤点しか取れない落ちこぼれだ。それなのに、どうして
教会は十戒を重んじて来たのだろうか。
 イエス様は神の御子だが、この世に来られ、十字架の死に至るまで、神
の戒めを完璧にクリアされた唯一人のお方だ。このイエス様が私達を抱き
しめてくださる。同時にイエス様の100点満点に、落ちこぼれの私達はスッ
ポリと包まれる。すると神様はこれを良しとされ、私達に「合格のハンコ」
を押して、私達を「罪のない神の子供」としてくださる。
 そこに私達の手柄は1つもない。そして私達にイエス様の100点満点を着
せてくださったのは神様だ。それほど私達は、神様に愛されている。イエ
ス様がこの世に遣わされたのも、神様が私達を、罪と死の中に放置できな
いから。私達と共に生きることを、誰よりも神様ご自身が熱望しておられ
る。
 それほどまでに私達は、神様に愛されている。十戒という高い塀を乗り
越えたら、神様に愛されるというのではない。私達が神様を知る前から、
私達は神様に愛され、100満点のイエス様が、私達に差し出されている。
私達には十戒を守る力はないが、100点満点のイエス様が、私達と共におら
れて「平面ガエル」みたいに私達を引っ張る。日々、イエス様に引っ張ら
れて神様の御心へ進む私達は「幸いな神の子供」。この幸いを味わい知る
ために、教会には十戒がある。

10わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。
ヨハネの手紙一 4章10節

十字架
ファティマ ポルトガル

坂の途中から2022年7月17日 中島 善子
 突然パソコンが壊れて新しいパソコンを購入し、苦闘悶絶しながら新し
いパソコンと格闘した先週の話の続編。
 今週も悶絶しながら、新しいパソコンに向き合っている。パソコンが何
か問いかけてくるけれど、意味が分からない。まるで知らない外国に突然、
放り出された気分。(゚Д゚;)
 なるべく相手(パソコン様)の機嫌を損なわないようにと、手探りの日々。
でも大切なデータがすっかり消えてしまったのが、何よりつらい。そんな
に悔やむほど大切なデータなら、別の媒体でちゃんと保管しておけば良
かったと深く反省。
 でも大切なデータを失ってしまって気づいたことがある。命が終わる時、
私のすべての記憶、感情、体験も消えて無くなるんだな・・・と。でもその前
に痴ほう症で家族の顔も忘れるかもしれない。いや、それよりイエス様を
忘れてしまったら、どうしよう。「この人、牧師だったのよ。ビックリよ
ね」とか言われたくない。
 先のことをあれこれ心配するのは止めよう。全部忘れてもいいや。自分
の中がカラッポになってもいいや。なぜなら、私がすべてを失っても、
私のすべてをイエス様が知っていてくださる。私を丸ごと全部イエス様が
握りしめてくださっている。そして私は永遠に、イエス様の中にいる。
そのことに気づいたから、今回のことは良しとする!(^◇^)/♪

5b主はすぐ近くにおられます。
6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい。
7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとを
キリスト・イエスによって守るでしょう。
フィリピの信徒への手紙 4章5b~7節

教会
鞭打ちの教会 エルサレム

坂の途中から2022年7月10日 中島 善子
 聖書研究の準備をしていたら、突然、パソコンが壊れた。以前から調子
が悪いなぁと思っていたけど、ここで壊れるかというタイミングで壊れた。
もう少しで終わるタイミングで壊れた。泣きたい。いや、泣いた。(/_;)
 ネットに繋ぐパソコンと繋がないパソコンがあり、ネットに繋がない古
いパソコンを使っていた。データを送る時に、まとめてUBSメモリーにデー
タ保存していたが、バージョンアップしてから古いパソコンが使えなくなっ
たので、データ保存をすっかり忘れていた。そして今日、パソコンの故障。
豊橋に来てからのデータがほとんど消えた。(;゚Д゚)
 長老さんに連絡して、新しいパソコンを購入して、セットアップを助け
ていただいた。隣で見ていただけで、私は何もできない。しかも色々なパ
スワードとか、壊れたパソコンの中にあったから、全然わからなくて、す
ごく迷惑をかけた。
 それでも何とか今、こうして週報のコラムが書けるように整えていただ
いた。
 思い上がって漫然と生きていると、飛んでもなく痛い目に遭う。今回の
ことは、天から私への厳しい警告と受け止めた。

30怠け者の畑の傍らを
意志の弱い者のぶどう畑の傍らを、通ってみた。
31見よ、いらくさが一面に茂り
あざみが覆い尽くし、石垣は崩れていた。
32わたしはそれに心を向け、観察した。
それを見て、諭しを得た。
33「しばらく眠り、しばらくまどろみ
手をこまぬいて、またしばらく横になる。
34貧乏は盗賊のように
欠乏は盾を取る者のように襲う。」
箴言 24章30~34節

教会
ガリラヤ湖畔の教会

坂の途中から2022年7月3日 中島 善子
 信仰生活を通して多くの人と出会う。若い人、年配の人。強い人、弱い
人。無口な人、話し上手な人。機転が利く人もいれば、要領の悪い人もい
る。
 そして不思議だけど、見た目じゃ人の信仰は分からない。と言うか、予
想をひっくり返されることが度々ある。
 貧しくても、弱くても、寝たきりになって動けなくても、神様の世界を
自由に飛び回ったり、大胆に泳ぎ回ったりする信仰者の姿を、何度も何度
も見てきた。
 「ねぇ、どうして、そんなに伸びやかなの?」
 自分の弱さ、貧しさ、不自由さを知っているから、そんな自分が神様の
ものとされていること
を、とても大切にして、心から喜んでいる信仰者た
ちだ。
 信仰の世界は、この世とは逆。この世では強い者が勝つ。しかし信仰
の世界では、弱い者、小さい者、貧しい者こそが、神様によって最強の
者、幸いな者とされて生きている。

9すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、
そして行き詰まりの状態にあっても、
キリストのために満足しています。
なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
コリントの信徒への手紙二 12章9~10節

パウロ像
パウロ像 マルタ島

坂の途中から2022年6月26日 中島 善子
 沖縄は梅雨明けと聞いたが、こちらはまだ雨模様が続く。それでも雨上
がりには、教会の植木を剪定する。これまでも時々、剪定していたけど、
雨と暑さで、枝も葉もあっという間にワサワサと伸びて、茂ってしまう。
 かわいそうと思うけど、剪定すると風通しが良くなって、害虫も防げ
る。何よりも、一つ一つの植木の輪郭がハッキリして元気に見えるし、
「こんな花が咲くの?」と新しい発見もあったりするのが、すこぶる楽
しい。
 作業していると、教会の駐車場の利用者さんに遭遇して、「お疲れさま
でした」と挨拶できる。普段は挨拶する機会もないから、これも嬉しい。
そして挨拶を交わす度に、そこに風がわたる。
 ギリシャ語で「風」を「プニューマ」という。これには「息」とか「霊」
という意味がある。キリストの弟子達に、聖霊が降ったことを記念する
「ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝」を6月5日に献げた。
 神の聖なる息(霊)・聖霊が、風のように吹いて、私達から邪悪な思いを
吹き飛ばして、代わりに、神の愛を1人1人に豊かに宿らせてくださる。
 いつでも聖霊によって、互いに風通し良くされていたい。風通しの良い
所には、まぶしい日差しが隅々にまで届くから。

16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、
力をもってあなたがたの内なる人を強めて、
17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、
あなたがたを愛に根ざし、
愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
エフェソの信徒への手紙 3章16~17節

教会
天井画 マルタ島の教会

坂の途中から2022年6月19日 中島 善子
 「コバエとの闘い」の最終報告。洗面所の水道蛇口を交換したら、コバ
エの発生は画期的に減った。柄の長いコロコロモップを持ったまま、洗面
所に長居しなくて済むようになったのが、正直うれしい(壁や天井にいるコ
バエを、コロコロモップで貼り付けて退治していた。皆様もお試しあれ)。
 そして先週、一回り大きなコバエを仕留めて、ベルゼブル(ハエの王・マ
ルコ福音書3章22節を参照あれ)と名付けた。水道蛇口の交換に加え、ハエ
の王を退治したから、あんなにうるさかったコバエの勢いが、急に落ちた
のかも知れない。わっはっは!(≧▽≦)
 そこで、また勝手に思った。これって「絵空事じゃなくて確信をもって
神の国を待望しろ」という天からの励ましかも知れない。
 邪悪な力が、まことしやかに装いながら、大手を振って、世の中を跋扈
(ばっこ)している。無数の尊い命が虐げられ、踏みにじられている。その
醜さ、卑劣さを知れば知るほど、意気消沈する。腸(はらわた)が冷えて、
力が失せていく。
 しかし神の国は来る!!必ず来る。すべての悪が根こそぎ神の勝利に飲
み込まれる「神の国」が必ず来る!
 復活のキリストが再び地上に立たれる「神の国」の到来を、全身全霊で
待ち望みながら、生きる、生きる、生きる。

14bイエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
マルコによる福音書 1章14b~15節

十字架の道
エルサレム 十字架の道にある教会で 

坂の途中から2022年6月12日 中島 善子
 「コバエとの闘い」の続報。洗面所の水道の蛇口が古くて根元がユルユ
ルだったし、洗面所の下方に水が漏っていた。そこで長老会が手配した水
道工事の方が来て、新しい蛇口をつけてくださった。洗面台のホーローそ
のものが古いため、完璧とは行かないけど、新しい蛇口は洗面台にシッカ
リ固定された。すると絶滅とは行かないが、コバエが少なくなった気がす
る。隠れた所で産んだコバエの卵が、まだまだ孵化して、これからも出没
するだろうから、油断はできない。でもコバエが少なくなって、うれし
かったし有難かった。
 コバエを絶滅できない状況を、先週、手に余る自分の罪の姿に重ねた。
だからキリストが与えてくださる罪の赦しは、「かけがけえのない命綱だ」
と再確認できた。そして新しい蛇口が設置され、コバエ発生が抑えられた
ことで、思った。これって「聖化」につながるのかな。
 生きている限り罪人だけど、キリストと共に生きることで少しずつ少し
ずつ罪から離れて行く。「聖化」されて行く。コバエの発生が抑えられた
のは、私の手柄じゃない。罪から離れて行けるのも、私の手柄じゃない。
キリストが共にいてくださるからだ。キリストに包まれて、キリストのも
のへと少しずつ「聖化」されて行く。年を重ねると不便も多いけど、キリ
ストと固く結ばれながら、キリストに似た者へと「聖化」されることを思
うと、年を重ねるのも楽しみだわ。

18わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、
鏡のように主の栄光を映し出しながら、
栄光から栄光へと、
主と同じ姿に造りかえられていきます。
これは主の霊の働きによることです。
コリントの信徒への手紙二 3章18節

十字架の道
エルサレム 十字架の道

坂の途中から2022年6月5日 中島 善子
 戸を開けて洗面所に入ると、コバエが気になる。ちゃんと拭き掃除はし
ているのに、どこから入って来るのだろうか。ネットで調べると、水回り
に出没して、卵を産んで拡散するらしい。拡散は困る。網戸の目をすり抜
けるから、暑くても洗面所の窓は締めている。水回りにスプレー洗剤を置
いて、洗面所に入るたび、コバエを狙って、スプレー発射。すると壁や天
井に、小さい黒い点が残る(勿論、後始末します)。
 一通り、コバエが見当たらなくなってから洗面所を出る。でも、また洗
面所に入ると、いる。コバエの奴が。クソッ!掃除しても、スプレー洗剤
を水回りに吹きつけておいても、奴らの数は減らない。なぜだ!?
 コバエと格闘しながら思った。「これ、罪との格闘みたい」。しかしコ
バエは寒くなれば消えるけど、罪はどこに行っても生涯、ついてまわる。
どんなスプレー洗剤を吹きつけても、罪は次から次へと、私の中からわき
出てくる。私の罪なんだけど、私の力じゃ、罪を始末できない。
 そんな私に、唯一の希望がある。キリストの罪の赦しだ。キリストの罪
の赦しを信じて、委ねて良いんだ。
 キリストの罪の赦しがあって、本当に良かった。

48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」
と考え始めた。
50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。
安心して行きなさい」と言われた。
ルカによる福音書 7章48~50節

教会

坂の途中から2022年5月29日 中島 善子
 創世記2章1~2節によると、神様は6日間で天地万物を造られた後、7日目
に安息され、この日を祝福し聖別された。大昔に書かれた聖書なのに、1週
間を7日としているのは、スゴイ。働きずめではなく、7日目に仕事を休ん
で、神様と向き合う「安息日」と定めているのも、スゴイ。
 「月、月、火、水、木、金、金」という休みがない過酷な生活を表す言
葉がある。交通機関や病院、消防、警察など、1日でも休んだら、たちま
ち困る仕事がたくさんある。でも365日、働きっぱなしだと、人が人でなく
なってしまう。
 だから神様、お願いします。すべての人に安息日を与えてください。そ
して安息日に、私達の思いも、意欲も、行いも、神様の中で、すべてリセ
ットしてください。日々の暮らしの中で、私達が向き合っているすべての
ものを、神様の御心の中で、完全にリセットしてください。そして安息日
にこそ、私達をまっすぐ神様に向き合わせてください。
 安息日にこそ、私達が神様のものとして癒され、養われ、満たされます
ように。
 そして新しくされた心と体で、安息日から始まる新しい日々を、神様の
前で生きる1人1人とならせてください。

9そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。
安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、
悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
10そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばし
なさい」と言われた。言われたようにすると、手は元ど
おりになった。
ルカによる福音書 6章9~10節

教会
ポルトガル ファティマの教会

坂の途中から2022年5月22日 中島 善子
 ウクライナに広がる冷たい残骸。知床に沈む冷たい残骸。命が無残に失
われる現実は、なんという冷たさだろう。ただ単に、命のぬくもりが失わ
れる冷たさではない。それ以上の冷たさだ。貪欲に歪む人の心から放出さ
れる冷たさだ。この冷たさに触れると、心も体も冷え切って、固まってし
まう。思考停止になって、息ができなくなってしまう。
 そんな時、四国の牧師から届いたLINEをふと思い出した。野良猫をつい
つい保護して、牧師館が猫カフェになっているあの牧師夫婦だ。寝る時は
布団の上にわらわらと、何匹もの猫たちが集まり、乗って来て、猫たちの
重みを感じながら、寝ている牧師夫婦だ。
 「保護していた猫が死んだ」とLINEが来た。もともと体が弱かった猫ら
しい。
 そして猫が死んだ日は、一晩中、夫人が死んだ猫を抱いたままだったと
いう。朝になっても、猫は腕に抱かれていた。呆然と、猫を抱いて立って
いる夫人の写真が送られてきた。一睡もしていないとみられる顔は、泣き
すぎて腫れていた。
 でもその写真からは、死の冷たさではなくて、小さな命をいとおしむ熱
が確かに伝わって来た。

37「わたしの名のためにこのような子供の一人を
受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。
わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、
わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
マルコによる福音書 9章37節

教会
ベツレヘムの教会

坂の途中から2022年5月15日 中島 善子
 以前、バイクに乗っていたが、数年前、4回目の事故の後、バイク禁止
令が出て、愛するモンキーRは友人牧師に移譲。それからバイクに乗って
ない。でも身分証明書代わりにと、隣市で免許更新(なぜか豊橋市内で手
続きできない!)。
 免許センター行きのバスに乗るため、豊橋駅まで行った。驚いた。
1時間に2本しかバスがないよ。強い日差しの中、ひたすらバスを待つ。
1時間近くガラガラのバスに揺られ、免許センターへ。免許更新する人が
少ないのかと思ったが、会場は満員(皆様、車で来場)。手続きと講習で
サクッと更新終了。でも帰り道、暑い中、ひたすらバスを待ち、同じ道を
同じ時間かけて帰宅。疲れた。身分証明書ならパスポートがあった。
バイクもないのに、時間とお金と体力を浪費して、安易に免許の更新なん
かして、私はアホだった。
 西尾教会で牧師会があった。迷子になりそうだったから、近隣牧師と
豊橋駅で待ち合わせて一緒に行くことに。早目に着いたので、100均ショッ
プをブラブラ。豊富な品ぞろえで、あれもこれも欲しくなった。で、気が
ついたら小物だけじゃなくて、園芸用スコップまで買っていた。
牧師会のために、発題担当の資料や、教会総会資料などを教会分だけ持参
している(オマケに傘まで持っていましたよ)。それなのに、西尾教会に
行く前から、こんなに荷物を増やしてどうすんのよ。あ~、私はやっぱり
アホだった。

14主よ、あなたがいやしてくださるなら
わたしはいやされます。
あなたが救ってくださるなら
わたしは救われます。
あなたをこそ、わたしはたたえます。
エレミヤ書 17章14節

ガリラヤ湖
ガリラヤ湖

坂の途中から2022年5月8日 中島 善子
 昔は試験当日の朝、文法の活用変化の一覧表を丸暗記して、そのまま試
験に臨めたのに、最近は記憶の劣化が激しい。とっさに人名や地名が出て
こないだけじゃなくて、数分前にひらめいた素敵なアイディアとか、さっ
きやっていたことをケロッと忘れてしまう。かなりヤバイよね。そのうち
「私、朝ごはん食べたっけ?」とか言い出すかも。
 牧師に定年はないけれど、チンプンカンプンなことを言い出したら、ど
なたでも遠慮なく肩を叩いてください。
 去年の引越しの際に、本など多くのものを処分した。でも記憶は荷物に
ならないし、できることなら残しておきたい。特に大切な記憶は。
 子供の頃から色々なものを集めてきたけど、今は一つ一つ手離して行く
日々。そして「自分の中に最後まで残っているものって何だろう」と考え
てみた。
 何も持たず、何も分からず、何もできず、カラッポの私をシッカリ抱き
しめるキリストがおられる。
 私はキリストの中にいる。もうそれだけで充分です。

26「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。
そうすれば、わたしのいるところに、
わたしに仕える者もいることになる。
わたしに仕える者がいれば、
父はその人を大切にしてくださる。」
ヨハネによる福音書 12章26節

イエス像

坂の途中から2022年5月1日 中島 善子
 5月から礼拝順序を全国連合長老会の式文に倣って、変更した。一番大
きな変更のポイントは、招詞(招きの言葉)から礼拝が始まることだ。教会
はギリシャ語で「エクレーシア」「共に呼び集められた人々の群れ」と言
う意味。
 誰が呼び集めるのか。主なる神様だ。聖なる神様が私達を罪あるままに
呼び集めてくださっているから、ここに教会がある。私達が好き勝手に集
まって、それでここに教会があるわけじゃない。
 神様は私達の表も裏も無意識の底まで、すべてを見抜いておられる。
私達の弱さ、愚かさ、罪深さを、すべて知り尽くしておられる。それにも
かかわらず、私達一人一人の名前を神様が呼んでくださり、ご自分のもと
に集めてくださる。
 私達を罰するためじゃない。私達のすべてを赦し、愛するため。神様の
ものとして養い、新しく生かして行くためだ。
 礼拝の最初に招詞(招きの言葉)がある。ダメだ、最悪だと思う時でも私
達は呼ばれ、求められ、集められている。神様のものとして、共に教会に、
共に礼拝に、集められている。ここにいる私達だけじゃない。すべての人
が神様に知られていて、神様に呼ばれている。まだ見ぬ人たちも呼ばれて
いる。教会になるよう、神様に呼ばれているって、スゴイじゃん。
 そのスゴイことが、招詞で始まる礼拝の最初に告げられている。それを
私達は教会で共に聞く。

12b御自身の国と栄光にあずからせようと、
神はあなたがたを招いておられます。
テサロニケの信徒への手紙一 2章12b節

東田教会

坂の途中から2022年4月24日 中島 善子
 大手牛丼屋の常務取締役が、若い女性を牛丼中毒にすると大学で講演し
て、世間で叩かれている。無神経な言葉を使う人がトップに立てる企業の
無神経さを思うと同時に、企業のトップであろうと、不当な言葉や不快な
言葉に異議が言える時代になったんだなぁとも思う。
 牛丼中毒があるのかどうか知らないけど、人は様々な中毒や依存症に犯
されている。確認中毒、潔癖中毒、お菓子中毒、仕事中毒、買い物依存症、
薬物やアルコール依存症、ウソや盗み依存症、ネット依存症・・・。
治療のために病院などのお世話になる人も少なくない。
 でも病院に行かなくても、すべての人が患っているのが、エゴ中毒、
エゴ依存症だ。エゴに引きずり回されて、今まで何と多くの人を傷つけ
て、何と深く自分を傷つけたことか。
自分から出たエゴだけど、エゴを鎮める力を人は持たない。エゴに溺れる
自分を、自力じゃ救えない。
 でも主なる神は、私達の弱さ、惨めさを決して笑わない。傷つき病んだ
私達を、決して見捨てない。

11まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは
自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
12牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、
その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。
わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての
場所から救い出す。

16aわたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ
戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。
エゼキエル書 34章11~12、16a節

スズラン

坂の途中から2022年4月17日 中島 善子
 書店で見かけて「欲しいな」と思っていた本をいただいた。
『ぼく モグラ キツネ 馬』という、不思議なタイトル。味のある筆書
き文字と、ラフなペン描きイラストが、文章のリズムにピッタリ合って、
どのページも胸に浸み込む。

『いままでに あなたが いったなかで
いちばん ゆうかんなことばは?』ぼくがたずねると

馬は こたえた。 『たすけて』

『いちばん 強かったのは いつ?』

『弱さをみせることができたとき』
『たすけを求めることは、あきらめるのとはちがう』
馬は いった
『あきらめないために そうするんだ』
(『ぼく モグラ キツネ 馬』より抜粋)

 無数の危うさの中に、私達は生まれ落ちて、生きている。今、生き延び
ている。すごいことだ。しかし命あるものを、死が待ち構えている。例外
はない。それでも「助けて!」と私達は叫び求めることができる。「助け
て!」と泣きながら叫んで、呼び求めて構わないキリストを、私達は知っ
ている。陰府の底から立ち上がったキリストが、私達を抱きかかえ、死の
底から引き上げてくださることを、私達は信じている。

9b求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。
ルカによる福音書 11章9b~10節

卯の花

坂の途中から2022年4月10日 中島 善子
 残りの時間。1人で動けて好きに過ごせる時間。美術館に行って、コン
サートに行って、絵を描いて、本を読んで過ごせる時間。とても大切な最
後の時間。
 その一時一時を神様優先にして過ごせるか。最後の時間を心から神様に
お献げしながら過ごせるか。それが私に課せられている最後の信仰の課題。
 最後の時間を自分が独占するのか。それとも喜んで神様にお献げするの
か。今も、これからも、神様に問われて行く。
 最後の仕上げを誰に委ねるのか。何に委ねるのか。
 残り時間で、すべてが決まる。
 だからこそ神様が、いつも見守っていてくださる。
 そしてイエス様が、いつも祈っていてくださる。
 最後の仕上げを、自分のエゴで破壊してしまわないよう、どうかどうか、
助けてください。

40bイエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈り
なさい」と言われた。
41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、
ひざまずいてこう祈られた。
42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけて
ください。しかし、わたしの願いではなく、御心の
ままに行ってください。」
ルカによる福音書 22章40b~42節

ゲッセマネ

坂の途中から2022年4月3日 中島 善子
 1年前、初めての地に来て、長老さんに助けられながら、何とか教会に、
礼拝に仕えることができた。
 今、牧師としての第4コーナーを突っ走っている。それは自分の説教を
極めるためなんかじゃない。説教を1つの手段にして、教会全体でキリスト
を体験するためだ。教会全体がキリストの体に飲み込まれるためだ。
 頭だけでじゃなくて、自分のすべてが、教会のすべてが、丸ごとキリスト
に飲み尽くされる幸いを、一人一人が実体験するためだ。
 礼拝の中で、一人一人が「インマヌエル・神が我らと共にいる」ことを
体験していく。「エンクリストゥ・キリストに結ばれる」ことを、皆で体験
していく。
 キリストに乗っ取られ、埋め尽くされ、占領される幸いを教会全体で味わ
うようにと、今ここに一人一人が集められている。この幸いをもっと多くの
人に告げ知らせるようにと、今ここで一人一人が用いられている。
 神様、ちっぽけな私達一人一人を見つけてくださって、本当にありがとう
ございます。

4あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
5そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。
詩編 8編4~5節

教会

2021年度のコラム

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