ィンクスが問いかけた「なぞなぞ」。答えは人間。朝は、赤ちゃんが手足
を使ってハイハイしている姿。昼は、自分の足で歩く姿。夜は、自分の足
と杖で歩く老人の姿。
スフィンクスの「なぞなぞ」を思い出しながら、「人生の夜」を歩く覚悟
を具体的に迫られている。
かくこともある。「信仰の杖」だけじゃなくて、「転ばぬ先の杖」も必要
かな。まぁ、御心のままに。
主は羊飼い、私には何も欠けることがない。
主は私を青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は、御名にふさわしく、私を正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない。
あなたが私と共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける。
私を苦しめる者を前にしても、
あなたは私に食卓を整えてくださる。
私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせてくださる。
命の在る限り、恵みと慈しみは私を追う。
主の家に私は帰り、生涯、そこに留まるであろう。
切実なことだと思います」と書いてあった。
家には、多くの物が残されていた。後片付けについて、以前は他人事だっ
たが、今は自分事として切実。
若い牧師に譲るなどして減らして来たけれど、まだまだある。だから買い
たい本があっても、我慢。
つけて衝動買い。消え物以外は買わないと固く決意したのに、値引き広告
に簡単に負けてしまった。
まことに、あなたは弱い者の砦
苦難に遭う貧しい者の砦
豪雨を逃れる避け所
暑さを避ける陰となられる。
さて、私達には諸々の天を通過された偉大な大祭司、
神の子イエスが与えられているのですから、私達の
公に言い表している信仰を、しっかり保とうでは
ありませんか。
この大祭司は私達の弱さに同情できない方ではなく、
罪を犯されなかったが、あらゆる点において私達と
同様に、試練に遭われたのです。
アングリカン教会の礼拝後
っている。いいなぁ。何でもチャレンジ出来る若々しい可能性が、礼拝堂
に満ちている。いいなぁ。
ないけれど、無尽蔵の可能性を秘めた学生が詰めかける礼拝堂で、共に讃
美歌を歌い、御言に聴くことで、御言を語る私自身が癒されているのを、
毎回、実感する。
の樹木がある。「癒されるなぁ」と思った時、気がついた。
可能性を宿す。自分が生きるためのたった一つの命だけど、でもその命は
自分以外の命を支えて、慰めて、癒して、励ます無尽蔵の命でもある。私
達の命は弱い。でも私達の命は、自分以外の命を導いて、立ち上がらせる
命でもある。しかも復活の主が、私達の命に寄り添っておられる。
死は勝利に飲み込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前の棘はどこにあるのか。
が召された。88歳だった。南米出身の教皇は、高齢だったが、各国を精力
的に訪問。日本にも来られ、広島・長崎の被爆地では、祈りをもって核兵
器廃絶を訴えた。
くのを動画で見た。生前、教皇は信徒に短いけど、深く、暖かく信仰を
語っていた。子供にも届く言葉で、愛を込めて信仰を語っていた。その
言葉一つ一つに、教皇の信仰から、ほとばしる柔らかな体温があった。
葬儀の後、教皇はバチカン内の大聖堂ではなく、ローマにある教会内に埋
葬される。教皇がバチカンではない教会に埋葬されることは、100年以上
なかったという。
だから、信徒の嘆きは大きい。でもそれ以上に「死からの復活の希望」を、
すべての人に、置き土産として残して、天に旅立たれた教皇に、心から感
謝したい。
「私は復活であり、命である。
復活のキリスト
守れない自分の罪を知り、悔い改めるためだ。故に十戒に続き、罪の赦し
を聞く。そして罪の赦しを聞いた者は、神に愛されている神の子供として
新しく生かされる。でも神の子供として生きるとは、具体的にどういうこ
とか。その道標となるのが、十戒。
いつも私達に寄り添い、支える。私達が何度キリストを裏切ろうが、キリ
ストの十字架の力、赦しの力、愛の力、復活の命の力が、私達と共にある。
い。復活のキリストが、常に私達と共にいて、私達を助けてくださる。
だから失敗を繰り返しても大丈夫。十戒の道標を見つめ、復活のキリスト
と共に歩んで行こう。
あなたには、私をおいて他に神があってはならない。
あなたは、いかなる像も造ってはならない。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。
あなたの父母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。
後に彼女は献身して、今月、立教大学で行われる研修のために来日。そし
て研修前、教会に来てくれた。
味しいパンで、ゆったり春を楽しんだ。教会に到着して一休みすると、彼
女はズームで英書購読。
スマホを上手に使いこなして愛知の旅を楽しみ、名古屋城などの写真を送
ってくれた。豊橋に来て、5年目に入るが、私はまだ名古屋城も熱田神宮
も行ったことがない。
牧師の卵として初体験だったかも。夕食は、彼女がドイツ料理を手作りし
てくれた。牧師の務めは尊い。だけど多くの苦難もある。話をしながら涙
目になった私を、彼女がやさしくハグしてくれた。
4日目は、豊川稲荷を一緒に初体験。大きな樹木が印象的だった。そし
て豊橋に戻り、新幹線に乗る彼女を見送った。前向きな彼女の生き方に勇
気をもらった。そして「十字架のキリストの後に、私も真っすぐ従って行
こう」と教会に帰る路面電車の中で、改めて思った。
私の後に従いたい者は、自分を捨て、
自分の十字架を背負って、私に従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、
それを失うが、
私のため、また福音のために命を失う者は、
それを救うのである。
耳掃除の動画。極小カメラで耳掃除の様子が見られる。耳穴をふさぐ「怪
物」を医師がピンセットなどで引き抜いて行く。ウルトラマンが地の底で
退治した怪獣を、地上に引き上げて行く感じ。キモイが、再生回数が数百
万回という動画もあるから、変人は私だけではなかった。
画みたいに、罪が目に見えたら、どうだろう。礼拝で罪が赦され、罪が取
り除かれる現実が、目に見えたらどうだろう。風呂に入ったり、化粧した
りする以上に、人は真剣に教会に駆け込んで来るだろう。
罪が清められて、「あなたは新しくなった」と、キリストに宣言していた
だける。この喜びと快感が耳動画のように目に見えたら良いのにと、密か
に思ってしまう。
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを
「私はあなたに言う。起き上がり、床を担いで
「このようなことは、今まで見たことがない」と
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